文字や数字を使ってコンセプチュアルアートを創り出した河原温。1960年代のニューヨークに衝撃を与え、今もなお多くの芸術家に影響力がある作品なのだが、彼は50年近く公の場に姿を見せなかったので、ミステリアスな人物だと思われている。
どんなアートシーンにも参加せず、インタビューにも答えず、自分の個展にさえ行くことはしなかった。こういってしまうと偏屈な世捨て人のような芸術家のように聞こえるが、河原温は友人が多く、家族もいたことが彼の残した多くの作品から推測できる。
河原温 コンセプチュアルアート開始まで
1932年12月24日 、もしくは1933年1月2日 とされ、愛知県刈谷市の生まれる。生年からしてはっきりしていないが、現在は1933年生まれであるとする説が多数である。
兄にデザイナー・イラストレーターの河原淳(カワハラジュン)がいることから、本名はカワハラアツシであろうと推測される。
1951年、愛知県立第八中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)卒。その後東京に移る。
3つ上の兄、淳はいくつもの大学へ通っていたのに、河原は大学へは行かなかった。
独学で哲学や政治学、精神分析理論を学んでいるが、美術については不明。
しかし、翌年「考える人間」で、1953年には第一回ニッポン展での鉛筆粗素描画「浴室」シリーズが注目を集めた。陰鬱でグロテスクなこれらの絵は恐怖を感じさせ、戦後日本の現実であるともされた。
その後、山下菊二などにより設立された前衛美術会に所属。左翼的で社会リアリズムの具象表現は、河原には馴染まなかったらしく、1959年にはメキシコへ立つ。
1959年にメキシコシティに滞在する。これはエンジニアとして赴任していた父親の元へ行った。日本にうんざりしていた河原は簡単に行ける海外ならどこでもよかったはずだから。
だから渡航先がニューヨークやパリではなく、メキシコだったのだ。
河原はメキシコシティ大学の芸術学部に通ったが、短期間であるので学位は取っていない。何人かの芸術家に師事したこともあるが、アカデミックな美術を学ばなかったアウトサイダーであると言えるだろう。実際河原の画力がどれほどのものかはわからない。しかし多才でどんなことをしてもセミプロレベルになってしまう彼のことだ。絵も一般人が感心する程度の技量は持っていたに違いない。
大学で勉強する代わりに、河原はメキシコ中旅をした。そこで驚かされたのはスケジュールや旅程が予定通りではないということだ。電車が5分遅れただけでニュースになってしまう日本から来た彼には、メキシコの緩さは衝撃的であったのはよくわかる。
ここで河原は時間と人間の生の関係性の着想を得たとも言われる。
1962年からは、ニューヨーク、パリ、スペインを旅し、アルタミラ洞窟の絵にインスピレーションを受けた。ここから、人が時間と空間の中で実在しているという事実を単純に表現することになる。
Title・Location
1960年代半ばにニューヨークで始まったコンセプチュアル・アート。河原はソーホーに移り具象的な作品を作ることを辞め、文字、数字や記号を使い始める。
1945年から1965年にかけて作成された「Title」はフレーズがある数少ない初期作品。キャンバスに手書きで活字を入れている。第二次世界大戦の経験をしている河原はベトナムへの空爆を、このミニマリズムの作品にかなりの感情移入をしていただろう。
「Location」は緯度、経度を示していて一点限りで終わっているが、同時期の作品なので「戦争」という観念に基づいているように見える。
Today 1966-2014
1966年から約50年続けられたシリーズ。
モノクロの背景にサンセリフ体で日付が手書きで描かれている。日付の描き方は、その時に住んでいる国の形式を使い、当日中に仕上げるという制作ルールがあった。
これらのシンプルな構成の作品は、職人技とも呼べる正確さと根気を必要とするもので、その熱気が鑑賞者にも伝わってくる。そしてその毅然とした美しさに心奪われる。また鑑賞者が「Today」を観た時には、その日付が過去のものになっていて、時間のつながりと今は一瞬であるという儚さ、そしてそに存在する我々を示しているのだろう。
このシリーズは河原が最も長く続けたプロジェクトであり、観念もしくは概念に基づき、具象表現なしでのコンセプチュアルアートを築いた決定的な作品である。
I Read 1966-1995
「I Read」シリーズは新聞の切り抜きに注釈などが加わったものを、灰色のバインダーに収めた作品。これは「Today」として作成されなかった全ての資料が含まれている。「I Read」のページは日付ごとに分けられ、関連する「Today」の作品に対応する数値コードが刻まれている。
儀式的でありながら創造性のあるこの記録管理には、政治的な出来事や河原個人の生活状態を言及する事柄も書かれている。
このシリーズでは、作品の創造の記録の重要性を先取りし、芸術制作においてのプロセス、技術、概念への疑問を投げかけている。
I Got Up ・I Met ・ I Went 1968-79
I Got Up
1968年から1979年の間、河原は自分のいる様々な場所から毎日、二人の受取人に絵ハガキを送った。配送は従来の郵便や宅配便を使い、内容はその日の起床時間をハンドメイドのスタンプで押してあるだけだ。
このプロジェクトには個人的なものと非個人的なことが入り混じっている。宛先は河原の友人やビジネス関係者であり、差出先は河原がその時にいる住所である。その土地の観光ハガキを使用しているので、まるで旅先からの楽しい報告のようであるが、内容は活字スタンプで起床時間しか押されていない。
このような単純な文を見知らぬ土地から知り合いに送るのは、現在において精神科医や心理学者が提案する治療に似ている。
しかし、多少の親密さは感じるが、このプロジェクトのコンセプトは時間であり、この同じ型のものが様々な空間に存在することは、コンセプチュアルでミニマル彫刻であるとも言われている。
「I Got Up」シリーズは河原のスタンプが盗まれたため、11年後に終了した。スタンプは戻ってきたが、河原は「I Got Up」を再開しなかった。
I Met
「I Met」はその日に会って話した友人、知人、ビジネス関係者の名前が書いてあり、一日は1ページで表されている。10年以上続けたことプロジェクトは24冊の製本された巻になっている。
この作品を作るきっかけとなったのは、ビジネスカードである。
河原は外国人の名前をすぐには覚えることができず、相手からビジネスカードを貰うのを常としていた。
以前から友人のカスパー・ケーニッヒ(キューレター)から、普遍的に理解できる詩の創作をリクエストされていて、名前が普遍的であることに気づく。それで、このルールに沿って並べられている名前を詩であるとしたのだろう。
「I Met」は河原が様々な人たちと交流してきたことが分かる記録でもあるが、ここになんらの感情は読み取ることはできない。しかし、これは我々が河原温の社交性の情報を最も得ることができる作品である。
I Went
毎日の自分の動きをコピーした地図に書き込み、それらを一定のサイズに拡大または縮小してトリミングをした。
赤い点は、彼がその日目覚めた場所を意味し、それは彼が「I Got Up」の絵葉書と同じ差出し場所である。
これらの地図は、各々プラスチックスリーブに入れられ、バインダーにファイルされた。
一人の人間がどこに行きどういう道順を辿ったかということは、個人的なことだが、その場所へいった理由や、何をしたのかという詳細は示していない。このことによって特定な個人ではなく存在と空間を表現していると推測される。
「I Got Up」 「I Met 」「 I Went 」のシリーズで河原は「空間」「時間」「存在」の概念的関係を観察者に問いかけたものであると美術家たちに言われている。
しかし、実際のところは謎の多い河原の私生活の側面の追求が多く、河原はうんざりしていたようだ。
I Am Still Alive 1970-2000
30年続けたこのプロジェクトは「I am still alive」とだけ書いた電報を不定期に多くの知り合いに送ったものだ。他の作品と異なる点は、河原は字の配置や紙質、配達時間を選択することをせず、電報局員にすべて委ねた。自分とは通常なんの関わりもない第三者に、重要もしくはたわいのないメッセージの通達を介入させた。
これは人々の日常生活が意識せずとも、世界の環境、政治、経済に影響されてしまっていることを表現しているのではないかとされている。
One Million Years 1999
「One Million Years」は、「One Million Years: Past」と「One Million Years: Future (For The Last One)」の2冊で構成されてる。作品が構想される前の100万年前と、その後の100万年がそれぞれリストされており、一冊目「Past」は、「生きて死んだすべての人々」に捧げられ、紀元前998,031年から西暦1969年までの年をカバーしている。2冊目「Future」は「最後のもの」に捧げられており、西暦1993年から始まり、西暦1,001,992年で終わる。
この作品が展示されると、男性スピーカーと女性スピーカーが順番に本の日付を朗読するパフォーマンスが行われた。
広大な計り知れないスケールの時間へのコンセプトの中に、有限と無限が実在していると言われる。そして作者が不在でも、死後においても、実施することができるプロジェクトである。
河原温はミステリアスな作家なのか?コンセプトは何か?
河原温は、2014年6月27日もしくは2014年7月10日、ニューヨークで死去。公表された死亡記事は、29,771日生きていたと述べているだけで、生年月日が不確かなため、死亡月日も不確かである。享年81歳。
このミステリアスな作家には多くの友人がいて、妻ヒロコもいつも彼の傍にいた。二人の間には息子がいる。河原の友人たちはみんな彼の多才ぶりに驚かされる。釣り、バトミントン、卓球、将棋などはセミプロ並みだったそうだ。穏やかな雰囲気があり、冗談もよく言う親しみやすい人で、物怖じしている初見の相手でさえ、別れるときには河原に好印象をもった。
彼はビジネス(アート)には「個人」を介入させなかったのだろう。偏屈な性格でも対人恐怖症でもない。河原が平均寿命の81歳まで生き延びたことは彼が心身ともに比較的健康な日常を送っていたのが伺える。ミステリアスであったのは芸術家としてだけで、彼の外見や素性を知らないのは、一般大衆のみだ。
河原は1960年代半ばから死ぬまでこの無機質で創造的なスタイルを続けた。
河原は自身の作品についてさえ語ることをしないので、作品のコンセプトは、すべて批評家、美術家または友人たちの解釈によるものである。
そしてその解釈のほとんどが、河原の禁欲的、瞑想的、禅仏教的な側面を表現していると言う。これは河原が日本人である(あった)ことを知っているうえでの考察も含まれているに違いない。
シンプルな文字や数字だけを並べた作品は、ミニマルであるからこその美しさを醸し出している。そして一瞬、ひととき、永遠の時間の中の存在は、多様なストーリーを無意識に生み出し我々を奥深い思考の中へ導いてくれる。これは「祈り」というものではないだろうか。
” We are the same, but different
Things are the same, but different
The days are the same, but different ” On kawara
参考1「On Kawara 」 Jonathan Watkins