アメリカの現代美術家、エヴァ・ヘス。
ヘスの作品はエキセントリックな物が多く、不幸な短い彼女の人生を物語っているとも言われる。しかし、ミニマリズム・アートからコンセプチュアル・アートへ移行していくうえでの、大きな影響力をもち重要な役割を果たしている。
イバ・ヘスの生い立ち
ヘスは1936年1月11日、ドイツのハンブルクでユダヤ教徒の家庭に生まれた。父親は弁護士であったがナチス政権下で仕事もできず、母親は鬱病を患っていた。
1938年、11月の「水晶の夜」の後、両親はナチスからの迫害を恐れオランダ、イギリスへと移り住み、ヘッセが3歳のときに家族はニューヨーク市のワシントンハイツに定住した。
両親とヘス(左)、姉のヘレン 1940年代 引用元
母親は市内のユダヤ人コミュニティでうつ病の治療を受けていたが良くならず、1944年に両親は離婚する。翌年父親が再婚すると、母親は屋根から飛び降り自殺。自殺。母親が大好きだったヘッセは深く心を痛めたという。
ヘスはニューヨークの工業美術学校(現在のハイスクール・オブ・アート・アンド・デザイン)に通っていて、成績はよく、友人も沢山いた。しかし、家族や友人からは精神的に不安定であると判断され、母の死が大きく影響したとされる。
学校の美術教育内容が納得できず、16歳で退学。同居している義母に、学校に行かないのなら働けと言われ、雑誌社の「セブンティーン」にインターンとして勤める。仕事内容は雑用のようなことが多かったが、自分には様々なことができると自信をつけた。
その後、1954年から1957年までクーパー・ユニオンで学ぶ。1957年にコネティカット州ノーフォークにあるイェール・ノーフォーク・サマースクール・オブ・ミュージック・アンド・アートへの奨学金を獲得した後、ニューヘイブンのイェール大学美術建築学部に入学し、ヨゼフ・アルバースに絵画を師事。1959年、イェール大学で美術学士号を取得し、ニューヨークに戻り、テキスタイル・デザイナーとして働くことになる。
エヴァ・ヘス Eva Hesse 1960-1964
untitled 1960 引用元
1959年にMoMAで開催された「16人のアメリカ人」展が、ヘスを抽象主義へのスタイルを確固たるものにする。もともと、ヘスは在学中、ウィレム・デ・クーニングの作品に倣って絵画を制作していたのだ。
1961年、ヘスはジョン・ヘラー画廊、ブルックリン美術館、ワズワース・アテネウムで初めてドローイングと水彩画を展示。
心理的なモチーフ、心の状態や気分といった無形のものを表現しようとしている。
対象を単純化し、本質的なものまで視覚的にまぎらわしたいという彼女の願望を物語っているとされるが、不気味な印象しか与えない。もしこれがヘスの精神であるならば、彼女はかなり病んでいる。
UNTITLED, 1961 引用元
同年4月、彼女は現代彫刻家のトム・ドイルと出会い、6ヵ月後に結婚した。ヘス25歳。ドイル33歳。(ドイルは再婚で元妻は大学の同級生)
1962 引用元
エヴァ・ヘス Eva Hesse 1965
二人は1965年にニューヨークを離れ、デュッセルドルフで制作を始めた。ドイルは1958年にブレイクスルーとなる作品「Stillman」を発表したため、ドイツの美術協会からオファーを受けたからだ。
当時ニューヨークではポップアートが主流になり、ヘスのスタイルは人気がなかったのもドイツへ行った理由でもある。
ヘスは、抽象彫刻が主流だったドイツのアートシーンに没頭した。その冬、彼女は工場を改造したスタジオで、日常的な素材や工業生産用部品を使った作品を制作し始めた。
しかし、幼い頃家族と暮らしたこのドイツでのナチスの悪夢が毎晩彼女を襲ったという。
その上ドイルは多くの女性と浮気を始めだした。ヘスの心の支えは現代美術家のソル・ルウィットからの手紙だった。
Sol Lewitt 引用元
ルウィットはヘスを熱愛していたのだが、ヘスは彼を兄弟のようにしか思えなかった。ヘスの良き師でもあったルウィットとの友情はヘスが亡くなるまで続く。
Ringaround Arosie 1965 引用元
この年の12月にデュッセルドルフ美術館で「リングアラウンド・アローズ」が展示された。これは乳房とペニスを表現したらしく、ヘス自身が母親になりたいという表明でもあるとか。
この作品はヘスが絵画から「風変わりな」彫刻へと進化す重要なランドマークである。
エヴァ・ヘス Eva Hesse 1966
1966年にヘスとドイルはニューヨークに戻るが、二人は離婚する。ドイルがヘスと別れたかったのだ。ヘスはハイメンテナンス・ガール、いわゆる面倒くさい女だったからだ。
離婚はヘスにとって大きな痛手だったが、さらに不幸なことにこの年に父親が亡くなる。
ヘスの父親は彼女が堅実な人生を歩むのを望み、アートの道に進むのを反対していた。そのためヘスの大盛況な個展へ行ってもあまりいい顔をしなかった。
それでもヘスは父親を愛していた。たぶん彼女は幼い頃家族4人で暮らした温かい家庭の思い出が忘れられなかったのであろう。
しかしヘスは自分が芸術家であるという意識を強く持ち作品を創り続けた。
Hang Up 1966 引用元
ヘスの作品は「不条理」への憧れ、もしくは「自己矛盾」を表現したと言われる。「ハング・アップ」は、キャンバスと布の包まれた枠、それに相反するように針金の輪が繋がっていて、絵画と彫刻の両空間を含んでいる。
エヴァ・ヘス Eva Hesse 1967-1968
Accession II 1967−1968 引用元
この金属製の立方体は内側に先端の尖ったチューブがびっしりと埋め込まれている。無機質な表面とは反対に内側は鋭利な刃物の集合にも見える。しかし、実際には柔らかいクッションのような感触で、危険に晒されながら、安全な空間を求めるヘスの心情を体現しているといわれている。
Repetition Nineteen III 1968 引用元
ヘスは彫刻の素材に工業材料での実験を何度も試していた。この作品はグラスファイバーでできており、一つ一つがヘスの手によってつくられ、個性を吹き込まれている。歪んだ半透明な容器たちは光を通して輝き、ミニマリズムの美しさを保ちながら次の主流となるスタイルを醸したじている。
この年にヘスは長い黒髪をバッサリ切っている。作品の変化を求めるためだと周囲にはいっていたが、翌年に自分の身体に起こる事態を無意識に察知していたのかもしれない。
エヴァ・ヘス Eva Hesse 1969−1970
Contingent 1969 引用元
ヘスは日用品や工業品を工芸的なものに変えていくパイオニア的存在だった。
この作品も丈夫なチーズクロスの上にグラスファイバーとラテックスを加工して作られている。8枚のパネルが垂直に吊るされているが長さは均等ではない。質感は、紙をクシャクシャに丸めた後に広げたような硬度を感じる。これらが作品に大きな動きを与え、また柔らかそうで硬いのか、重そうで軽いのかなどの相反する印象を受ける。
残念なことのこの作品はラテックスを多用したため、現在では展示できないほど劣化している。ヘスはラテックスは時間が経つと不安定になることを知っていて敢えて使用した。これは彼女が残した言葉「人生も芸術も続くことはない」ということなのか。
ヘスはこの年脳腫瘍の手術をする。長年頭痛に悩まされていたが検査はしないでいたのだ。術後の回復は良く、また意欲的に制作活動に戻れたので、腫瘍のあった部位がそれほど身体に影響を及ぼすパートではなかったように見受けられる。
Right After 1969−1970 引用元
グラスファイバー紐をラテックスに浸し、S字フックにかけ天井から吊るしたこの作品は、ヘスの最高傑作である。ミニマリズムを逸したハンドメイド作品は、叙情的であり、大きな物語を語っているように感じる。舞台の天幕のような、天から垂らされた光の糸のような鑑賞者によって様々な場面を想像させる紐状の空間表現は、この先他のアーティストやたちに大きな影響を与えた。
残念なことに、ヘスの容態は悪化し2度の手術を受けるが、1970年5月29日この世を去る。34歳だった。
ヘスの墓はルウィットが設計した。ルウィットはヘスが彼の愛を受け入れなくとも献身的に彼女を励まし続け、制作の支えとなっていた。もし、ヘスがルウィットをプライベートでもパートナーとして求めていたら、彼女の作品はかなり変化していただろう。
イングリット・バーグマン似の母親の血を受け継ぎ、ヘスは整った顔と黒髪、バランスの取れた体をもち、その上ファッションセンスも抜群の美人だった。しかし、彼女の精神は常に混沌としており、完全なる自立と、何にも脅かされない加護を求めていたのではないだろうか。
参考1 ”THREE ARTISTS” Anne Wagner
参考2 Eva Hesse Documentary