アメリカ抽象表現主義絵画の第二次世代で、代表的なアーティストといえば、ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler)、リー・クラスナー(Lee Crasner)、ジョアン・ミッチェル(Joan Mitchell)だろう。
グレース・ハーティガン(Grace Hertigan)もこの第二次世代であり、脚光を浴びた女性アーティストたちの一人である。
グレース・ハーティガン(Grace Hertigan)生い立ち

1922年3月28日、ニュージャージー州ニューアークで、アイルランド系イギリス人の家庭で、ハーティガンは生まれる。4人兄弟の長女だった。
父親と祖母はハーティガンの創造性を発達させるために、歌や物語を聞かせていたが、母親は反対していた。
高校生の時に演劇部に入り女優を志す。高校を卒業後、すぐに同級生のロバート・ジェイヘンズと結婚。彼がハーティガンに詩を送ったのが気に入ったそうだ。翌年に息子が生まれる。
二人はアラスカへ開拓者として移住を目指すも、カリフォルニアで挫折。
1942年に夫が徴兵されると、ハーティガンはニュージャージーに戻り、ニューアーク工科大学で、機械製図を学び、飛行機工場で働いた。
この時、アイザック・レーン・ミューズ(Isaac Lane Muse)から学び、画家として活動をし始める。
グレース・ハーティガン(Grace Hertigan)1945-1950
1945年、ハーティガンはニューヨーク市に移り、ダウンタウンの芸術家コミュニティの一員となった。友人のジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)、ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)、ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler)などなどの抽象表現主義を代表するメンバーと共に名声を得る。
夫のジェイヘンズがハーティガンの成功に執拗に嫉妬したため、1947年に離婚。
1948年に抽象表現主義のハリー・ジャクソン(Harry Jackson)と結婚し、メキシコに滞在していたが、翌年には離婚。ハーティガンはやたら結婚と離婚を繰り返すアーティストのようだ。またジャクソンも、生涯6回も結婚と離婚を繰り返している。

Harry Jackson 引用元
グレース・ハーティガン(Grace Hertigan)1951-1960
1951年に初の個展を開催。この頃、作品の知名度を上げるために、「ジョージ・ハーディガン」という名を使っていた。19世紀の女性作家ジョージ・エリオットに共感したため、男性名を使用したという。
Six by Six 1951 引用元
1952年からは一般的なモチーフやキャラクターを作品に取り入れるようになり、ポップアートの先駆けと捉えられるが、ハーティガン自身は否定している。彼女は作品には「意味と感情」がなければならないとし、大量生産できるアートを嫌っっていた。
1953年からは本名のグレース・ハーディガンを使用。この人の人生は何につけてもフットワークが軽い。ハーティガンの性格は批判的なものが多い。社交性に欠け、すぐに怒らせたり、怒らせたりするタイプ。大酒飲みで、孤立する癖があり、自分が唯一の女性画家であるかのようにふるまう。そして常に同僚や友人の成功を羨んでたという、なんともアグレッシブな人物である。しかし、女性アーティストの中で、取り立てて美人でもなく、安全なバックアップもなかったハーティガンにはこのぐらいの狡猾な押しの強さは必要だっただろう。

Joan Mitchell, Helen Frankenthaler, and Grace Hartigan in 1957. 引用元
そんな中でも親交の深かった詩人、フランク・オハラ(Frank O’Hara)と共同で「オレンジ:12の田園詩」の絵画シリーズを制作した。

Oranges 1953 引用元
オハラにとってハーディガンがミューズであり、何度も彼女に詩を捧げていたが、この友情もハーディガンの突然の思い付きで、1960 年代初頭に突然終焉を迎えた。
1956年、ハーティガンの絵画は「12人のアメリカ人」展で展示され、ヨーロッパを巡回した「新しいアメリカ絵画」展にも出品された。ライフ誌やニューヨーク・タイムズ誌で「最も人気のあるアメリカ人女性画家」として称賛された。
1958年にロングアイランドのギャラリーオーナーのロバート・キーンと結婚したが、1960年に離婚。
これは、1959年にジョンズ・ホプキンズ大学のウィストン・プライス博士と出会ったからだ。
プライス博士は美術品収集家であり、ハーディガンの絵を買った縁で1960年に結婚している。

Dr. Winston Price 1957 引用元
グレース・ハーティガン(Grace Hertigan)1961-1970
1965年、ハーティガンはメリーランド美術大学の大学院絵画プログラムであるホフバーガー絵画学校の校長に任命され、死去するまでパートタイムで教鞭を執った。

長い間、学校の校長をやっていると、いかにもそれらしい風格がでてくるのには驚いた。纏まりのないふわっとした若い女性が、環境によって威厳ある姿に変化した。メリーランド美術大学を全国的に著名な教育プログラムへと押し上げ、在任中は数百人の学生を指導したのだ。
42年間の教鞭で、フェミニズム芸術の先駆者として称賛されるようになるが、ハーディガン自身は作品が性別によって評価されるのを嫌っていた。
60年代は大衆文化を題材とした陽気な雰囲気の作品が続く。
Reistertown Mall 1965 引用元
Modern Cycle 1967 引用元
1969年には友人のマーサ・ジャクソンを追悼する作品「When the Raven Was White」を発表している。花や鳥など具体的にわかるものとそうでないものが、ジグゾーパズルのように、濁った色彩と共に組み合わされている。この絵は1970年代の絵画の先駆けとなった。

When the Raven Was White 1969 引用元
グレース・ハーティガン(Grace Hertigan)1970-
1970年代はキュビズムの影響を色濃く受け、作品のそれぞれのアイコンが考えや感情を表現している作品が多かった。

Zoo Set 1970 引用元

America‘s Bicentennial 1976 引用元
1981年に夫のプライスが、脳炎の実験的ワクチンを自分自身に注射したことで脊髄髄膜炎を発症し、10年にわたる精神的および肉体的衰弱の後、58歳で亡くなった。
翌年、ハーティガンは自殺を試みるが失敗。
ハーティガンは若いときからの大酒のみが祟って、アルコール依存症に苦しんでおり、禁酒を務めながら制作をしていたのだか、この最後の夫の死と自殺未遂をきっかけに禁酒に成功した。
1980年代以降の絵画には、紙人形、聖人、殉教者、オペラ歌手、女王などが題材となったものもあった。

Amina and Sigmund, 1986 引用元

Saga, 1994 引用元

Cleopatra, 2004 引用元

Maria Montez, 2006 引用元
ハーティガンは「1950年代のニューヨーク派の多くの芸術家を悩ませた問題、すなわち『芸術の未来』を解決した」ことで高く評価されている。抽象表現と写実主義、そして図像表現を調和させた作品は、次世代の新抽象表現主義に影響を与え、教育者としても成功した。
2008年11月、グレース・ハーティガンは86歳で肝不全のため亡くなった。
