芸術家の恋人たち

ルノワールの妻アリーヌAline Charigotと恋人たち|芸術家の恋人たち

ふっくらとした乳白色の顔にバラ色の頬。おっとりとした佇まいで目を細めて微笑み、こちらを見つめる。傍にいれば優しさと安らぎに包まれ、ずっと一緒にいたくなるような女性。それは誰もが憧れる恋人や妻や母親の理想像だろう。

ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir )はこのような女性像を多く描き、我々を魅了している。

慈愛に満ちた女性を描くルノワールは、女性を崇拝し宝物のように大事に扱ったのではないかと思えるが、残念ながら全く違った。

結婚は一度だけだったが、星の数ほどの恋人がいたのだ。

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ルノワールの妻 アリーヌ・シャリゴ 糟糠の妻?

Aline Charigot - Wikipedia

Portrait of Aline, 1885  引用元

アリーヌ・ヴィクトリーヌ・シャリゴ(Aline Victorine Charigot )は、1859年5月23日フランスのエソワでブドウ栽培の農家の家に生まれた。しかしアリーヌが幼少の頃、父親がアメリカへ渡ってしまった。生活のため母親はパリに出たので、叔父母に育てられたが学校教育は受けられなかった。

1874年、15歳の時母親を追ってモンマルトに行き、そこでお針子の仕事をしていた。

1879年、アリーヌは38歳のルノワールと大衆食堂で出会う。ルノワールはこの頃お金にならない印象派グループを抜け、何度もサロンで入選し、経済的な目途も立ってきたところだ。

アリーヌの抜けるようなポッチャリとした白い肌に赤毛が映え、一目で気に入ってしまったようだ。やせっぽっちでギョロ目のルノワールは、大体においてふくよかで目を細めて笑う女性が好みだった。二人はすぐ同棲を始め、アリーヌはルノワールの絵のモデルとなった。

海辺にて

By the seashore   1883    引用元

このこのまるまると太った容姿が実に可愛らしい。

しかし、ルノワールはアリーヌとの付き合いを周囲には隠していた。それは彼女が労働者階級の出身だったからだ。ルノワール自身も仕立て屋の息子で労働者階級のくせにね。

彼の仲間はブルジュア出身が多く、プライドを傷つけられ、肩身の狭いおもいをしていたようだ。身分や財産のある女性と付き合って、仲間を見返してやりたい気持ちもあったに違いない。

1885年、二人の間に長男ピエールが生まれ、ラ・ロシュ=ギュイヨンに一時的に移る。

Road of La Roche-Guyon, 1880 - Claude Monet - WikiArt.org

Road of La Roche-Guyon 1880   引用元

もともと農家の娘であるアリーヌは田舎の生活のほうを好み、喜んで畑仕事や肉体労働をこなし、定期的にモデルを務め、ルノワールの助けになっていた。このような献身的なポッチャリ美人のアリーヌをルノワールはたいそう気に入って、1890年4月に結婚する。アリーヌは子供が生まれても、次々と愛人を作るルノワールと同棲をしていて不安だったから、大層嬉しかっただろう。

1894年、次男ジャンが生まれる。この頃から二人の生活はかなり余裕がでてきて、使用人も雇うようになっている。

1896年、アリーヌの故郷エソワに家を購入。

Visit Essoyes to see the landmarks where Renoir lived & loved to paint

ルノワール夫妻が住んでいたエソワの家  引用元

901年、三男クロード誕生。

この三兄弟は父親の芸術性を受け継いだようで、長男ピエールは俳優、次男ジャンは映画監督、三男クロードは陶芸家となっている。

アリーヌはクロードを生んだ後、糖尿病になってしまった。しかし、このことを彼女はひた隠しにしていた。実は数年前ルノワールがリウマチを発症し、介助が必要な身体になっていたのだ。アリーヌは夫の面倒をすべて自分が看たかったからである。

1903年にカーニュ=シュル メールに住居を構えて、レ・コレットという家を建て、夫婦は晩年を過ごす。レ・コレット邸は現在ルノワール美術館として公開されている。

これがルノワールが住んでいたコレット邸で、現在は美術館になっている建物です。

レ・コット邸 ルノワール美術館   引用元

1910年にはルノワールのリウマチが重症化し車椅子の生活となったが、ピカソ、マチス、シニャックなどの若い画家たちがよく訪れていた。そんな中でアリーヌはピアノを弾き一緒に芸術談義をしたりし、優しく笑顔の絶えない妻だった。

Pierre-Auguste Renoir Biography | Daily Dose of Art

引用元

1915年、長男ジャンと次男ピエールは第一次大戦で徴兵され、ジャンは重傷を負ってしまい入院。アリーヌはジャンの病院へ見舞に行った後、6月27日、ニースで心臓発作で亡くなった。56歳だった。74歳で障害を抱えていたルノワールよりも先に亡くなってしまったのは、糖尿病が原因だろう。

ルノワールにとってアリーヌは理想の妻だったに違いない。自分の求める女性像の容姿を備えていて幾度となくモデルを務め、三人の良き息子を育て、家事を仕切った。数々の夫の浮気にも目をつぶり大事にはしなかった。

間違いなくルノワールはアリーヌに感謝し妻として深く愛していた。その証拠にアリーヌが亡くなった後、彼女の墓碑としてテコラッタのアリーヌ像を依頼したのだ。

アリーヌが亡くなって4年後、憧れのルーブル美術館に自分の絵が買い取られた年、ルノワールは肺充血で78歳で逝去した。

Cemetery - Du Côté des Renoir

後ろがアリーヌの墓だが、彼女のブロンズ像は盗まれて紛失してしまった  引用元

きっとアリーヌはルノワールのことを「理想的な夫」とは思っていなかっただろう。彼女が夫に何を求めていたかは定かではない。慈愛に満ちた笑顔のモデルアリーヌは幸せだったのだろうが、どんな幸せを得ていたのかは我々の想像でしかない。

リセ・トリオ  ルノワールの結婚前のお気に入りの恋人

Lise Tréhot - Wikipedia

Lise in 1864  引用元

リセ・トリオ(Lise Trehot)はアリーヌと付き合う前に、ルノワールの一番のお気に入りだった恋人だ。

1848年にパリで生まれ、ルノワールより7歳年下。家族は雑貨商を営んでいたが、トリオはお針子だったらしい。

トリオの姉がルノワールの友人の画家ジュール・ル・クールの愛人であり、1865年、17歳の時にモデルを始めた。駆け出しの画家だったルノワールは、トリオをモデルにして1866年から1872年の間、20点以上の作品を描き上げる。

Lise with a Parasol  1867  引用元

この木漏れ日が降り注ぐ森の中を散歩する等身大のトレオの絵はサロンで好評を得て、知名度、人気度が少しずつ高まっていく。

トリオはルノワールとの間に二人の子供がいる。息子のピエールの消息は不明だが、娘のジャンヌは乳母に預けて養育した。ルノワールは法的にジャンヌを自分の娘とは認めなかったが、彼女が64歳で亡くなるまで、経済的な援助をしていた。

1870年の普仏戦争にルノワールが従軍すると、親密な二人の関係は終わってしまう。

そして、建築家のジョルジュ・ブリエール・ド・リズル(Georges Brière de l’Isle)と1873年には結婚。性格の悪い子供の認知もしないルノワールを待つことはしなかったのは当然だろう。リズルとの間に4人の子供を儲け、74歳で亡くなる。

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スザンヌ・ヴァラドン トレンド女性との恋

Suzanne Valadon - Wikipedia

引用元

スザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)は多くの有名人と浮名を流しでいるが、ルノワールもそのうちの一人だった。

1865年9月、フランスのベシーヌ・シュル・ガルタンプで生まれ、女性として初めて国立美術協会に認められた女性画家である。

しかしこれは彼女が40歳を過ぎたころで、ルノワールとつきあっていてたのは、いろいろな画家のモデルをして生活をしていた。そして、ジャンルを問わず新鋭アーティストたちと肉体関係を持っていた。

ヴァランはモーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)の母親であるが、父親はルノワールではないかとの噂もある。

ヴァラドンは、ルノワール好みのポッチャリ系ではなく、はっきりした顔立ちのしゃくれあごだったので、彼女は男性を引き付ける特別な魅力があったのだろう。もしくは、ルノワールが単に許容範囲の広いタイプで、これも無類の女好きと言われる所以だったのかもしれない。

けれどヴァラドンとの関係は、これまで温厚さを保ち、沢山の浮気に目をつぶってきた妻アリーヌの逆鱗に触れ、アリーヌは離婚も考えたそうだ。

ルノワールは1882年末から1883年にかけて、ダンス3部作と言われる『ブージヴァルのダンス』、『田舎のダンス』、『都会のダンス』を制作した。『田舎のダンス』の女性のモデルはアリーヌ・シャリゴ、その他の2作品のモデルはシュザンヌ・ヴァラドンである。px

 引用元

アリーヌは自分より8歳年下で娼婦まがいのことをしている女性が、夫の愛人なのはもちろん気に食わなかっただろうが、この3部作の2つもヴァラドンがモデルなのが許せなかったに違いない。そのうえアリーヌもヴァラドンも田舎の出身なのに、なぜヴァラドンが都会のダンスのモデルになったのか。夫の心無い選択にアリーヌは打ちひしがれた。

ヴァラドンとは同じ画家仲間でもあり、ルノワールのリウマチが発症するまでズルズルと続いていたようだが、しょせんは火遊びの関係だった。

ヴァラドンも自分のキャリアと経済的な豊かさを手段を選ばず追い求めた女性なので、ルノワールに愛をもとめたわけではないだろう。

参考1

参考2

参考3

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