現代美術

ソル・ルウィットSol LeWittの略歴。ウオール・ドローイング、アイディアこそ芸術!

ウオール・ドローイングでよく知られるアメリカの現代芸術家、ソル・ルウィット。

既存のコンセプチュアル・アートに新しいスタイルを開いたルウィットは、実際に絵や彫刻を作成することよりも、作品のアイディアを創作することに重点をあてた。

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ソル・ルウィット 1928−1949

Conceptual Artist Sol LeWitt Didn't Paint. He Imagined

引用元

ルウィットは1928年9月9日、ロシア系ユダヤ人の両親の一人っ子として、コネチカット州ハートフォードで生まれた。

父親は医師だったが、ルウィットが6歳のときに亡くなり、母親とニューブリテンの叔母の家で暮らすことになる。アートは子供らしく好きだったが、ユニークな絵を描くことで、美術教室に通っていた。

その街での若者は工業的な職につくのがほとんどだったが、ルウィットはそれを避けるため芸術の道に進むことを決心する。母親が学位を取らせたかったためもあって、シラキュース大学に入学。彼のリトグラフの作品は1000ドルの賞が授与された。

1949年に美術学士号を取得。

ソル・ルウィット 1951−1959

1951年23歳で朝鮮戦争のために徴兵され、特殊部隊に配属された。従軍中には韓国や日本の庭園を訪れることができた。

除隊後、1953年、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツでイラストの勉強と、雑誌「セブンティーン」でのデザイン実習を両立させた。

ルウィットの愛しの君、エヴァ・ヘスも「セブンティーン」で働いていたことがあるので、この時期二人は出会ったのかもしれない。ヘスはイケメン好みだったので、叶わぬ恋となったが、二人の友情はヘスが34歳で亡くなるまで続いた。

1955年、I.M.ペイの建築事務所にグラフィックデザイナーとして入社。ここで建築家芸術性に気づき、芸術は芸術家が初めから終わりまで創り上げなくとも、アイディアや構成すれば、他人の手で作品が作られても、芸術であると悟る。

Sol LeWitt | Untitled (Trees and Mountains) (1955) | MutualArt

Untitled  1955  引用元

しかし、ルウィットは自分の方向性が定まらないため、仕事をやめ、ソーホーに移り、ドローイング教室に通った。幅広い題材を試みながら、近代美術館で夜勤勤務をしていた。

1959年、MoMAで開催された「16人のアメリカ人」展がルウィットの転機となる。このとき大物と言われる現代絵画が、ロマンチックな抽象表現主義に過ぎず幻滅し、新たな道を模索する。そして、絵画の平面性を立体的な技法と鮮やかな色彩でより単純化する方法を思いついたのだ。

ソル・ルウィット 1965−1980

1965年にジョン・ダニエルズ・ギャラリーで初の個展。

Sol LeWitt | Cube (1965) | Artsy

Cube  1965   引用元

1966年に「シリアル・プロジェクト#1」(ABCD)を完成。任意に選んだ1:8:5の比率に従って、実測された構造物を作り始めた。ここから1970年初頭までルウィットの円熟期に入る。

1968年、壁に直接ドローイングして作品を制作する。この「ウオール・ドローイング」は黒鉛鉛筆、クレヨン、色鉛筆、墨汁、アクリル絵の具などを使った。どんなマテリアルを使用してもルウィットは「ドローイング」と呼んでいた。

ルウィットのウォール・ドローイングの多くは、彼のガイドラインとダイアグラムを用いて他の人々によって描かれている。現在でもこの手法で展覧会のために描かれ、展示が終わると破棄される。

1969年、ルウィットは美術理論への進出を告げる。「コンセプチュアル・アートに関するパラグラフ」と「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」というエッセイを書き、彼の意図と視点を完全に明確にしたコンセプチュアル・アートの理論ある。これは、ミニマリズムから距離を置くプロセスでもある。

ルウィットは出版物のために自分の写真を提出することを拒むことが多く、自分自身ではなく作品に焦点を当てるべきだと主張していた。

 

Wall Drawing #51, 1970   引用元

のちに発表した『自伝』という作品で、マンハッタンのロフトの隅から隅まで、配管器具や壁のコンセント、空のマーマレードの瓶に至るまで、彼が撮影した1,000枚以上の写真で構成されており、写真を撮る過程で彼に起こったすべてのことが記録されている。しかし、彼が写っているのはたった1枚だけで、とても小さく、ピントが合っていない。

この時代は、作者自身の肖像写真を拒むアーティストもしばしばいた。ミステリアスなアーティスト河原温もそうだった。

しかし美術鑑賞者としては、作品を見れば、どんな作者か内面も外見も知りたくなるものだ。バンクシーのようなグラフィティアートなら正体を明かさないのも売りの一部だろうが、ルウィットのスタイルなら、もっと彼自身の姿を見たいものだ。

1970年代後半にイタリアのスポレートに移り住んだ後、ルウィットはクレヨンや他の色鮮やかな素材を使ってウォール・ドローイングを描き始めた。この変化は、イタリアのフレスコ画に触れたからだそうだ。

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ソル・ルウィット 1980−2007

Wall Drawing #620, 1989  引用元

1982年にキャロル・アンドロージオと結婚。ルウィット54歳。

キャロルは、ニュージャージー州ニューアークに生まれ。1975年、ソルと出会ったのは、彼がスポレートに家を買った直後のことだった。結婚した理由は、キャロルが運転免許のある世話を焼いてくれる女性だったと、冗談交じりに話したそうだが、ルウィットも自分の人生を支えてくれる人がそばにいて欲しかったのだろう。

壁面ドローイングのデザインは、「Squiggly Brushstrokes」シリーズや「Wavy Lines」シリーズのように、曲線や塊で実験的に表現され、より自由で遊び心のあるものになり、変貌していった。

Sol LeWitt | Wavy Lines on Gray, from Sequences (K. 1998.06) (1998) | Artsy

Wavy Lines on Gray, from Sequences  1998  引用元

1980年半ばにはスポレートからニューヨークに移る。住居はコネチカット州チェスターで妻のキャロルと2人の娘、ソフィア、エヴァと一緒に暮らしていた。

2000年にサンフランシスコ近代美術館が企画した回顧展は、ニューヨークのホイットニー美術館とシカゴ現代美術館を巡回。カラフルなウオール・ドローイングが注目を集めた。

Sol LeWitt | Color Bands (2000)

Color Bands  2000  引用元

2005年、ルウィットは走り書きの壁画シリーズを制作し始める。

2007年4月8日、癌の合併症で亡くなる。ルウィットはスタジオで制作していることが彼の人生そのもので、休暇も嫌っていた。彼のキャリアは死ぬ間際まで絶頂期であった。

参考1

参考2

参考3

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