日本のアクションペインティングの巨匠 白髪一雄。
その妻の白髪富士子が一雄と同じ現代美術家であり、約10年ほど活動していたことは、あまり世間には知られていないようです。
ここでは、白髪富士子のプロフィール、作品、経歴を見ながら、巨匠 白髪一雄との生活や夫婦関係などを考察していきます。
白髪富士子のプロフィール 学歴・経歴・賞歴
引用元:http://www.archaic.or.jp/shiraga/
生年:1928年
没年:2015年 享年87歳
旧姓:植村富士子
出身地: 大阪府大阪市
学歴:大阪府立大手前高等女学校
白髪富士子は、1928年に大阪市内で時計店を営む父 植村光三と母 成乃の間の生まれました。三人姉妹の次女でしたが、末の妹が幼小期に親戚の養子になったことから、長女と二人姉妹のように育ち、仲が良かったようです。
高等女学校時代に、姉と共に絵画部に所属して絵を描くことをしていました。富士子はアカデミックな美術教育を受けていません。
高等女学校を卒業後は、京都に転居し、母が営む編み物教室を手伝っていました。能楽を好む母の影響で鼓を習っていた頃、同じく能楽をたしなむ白髪家の親戚と知り合いになります。その縁で、20歳のとき、まだ 京都市立絵画専門学校の学生だった白髪一雄と結婚。
21歳で長男を出産し母となります。1952年ごろから、一雄が所属する新制作派協会の仲間と0(ゼロ)会で、新しい創作に目覚めて制作を始めました。1955年には一雄に続いて具体美術協会の会員となり、吉原 治良に師事。
吉原 治良 よしはら じろう、1905年1月1日 – 1972年2月10日
具体美術協会の創設者。抽象画家、実業家。吉原製油社長。中之島にあった自分の所有する土蔵を改造して、具体美術協会の本拠となるギャラリー「グタイピナコテカ」を開き、会員たちの個展を開いた。また、実業でもデザインにこだわり、吉原製油の「ゴールデンサラダ油」のパッケージデザインにあたり、当時もっともモダンなグラフィックデザイン家に依頼するなどしていた。油絵具が大胆に隆起した作品を経て、筆跡がわからないほど丁寧に描かれた円を多く描いた。67歳で逝去後、具体美術協会は解散。
藤田嗣治(左)と吉原治良 引用元:https://jaa2100.org/entry/detail/
富士子は、具体美術展や芦屋市展を発表の場として本格的に制作発表を行いました。今までになかったものの制作ということを主題に、キャンバスは、顔料だけでなく、ワックス、ガラスの破片、破れた紙も使用し、大胆な実験をしていました。夫一雄の多彩な足の絵フットペインティングとは対照的に、彼女のパレットは白ベースのモノクロームに保つ作品が多かったようです。
1958年、一雄は多数の作品をヨーロッパに送る契約を結び、具体美術協会の活動が多忙になってきます。富士子は第10回具体美術展への出品を最後に、創作活動に終止符を打ちます。1961年(富士子33歳)以降は一雄のアクション・ペインティングの制作のアシスタントとして、彼の活動を支えました。
白髪富士子の作品
引用元:https://www.artforum.com/passages/
引用元:https://www.artbasel.com/catalog/artist/37563/
引用元:https://www.mutualart.com/Artist/Fujiko-Shiraga/C66A78826BEDF348
引用元:https://www.artforum.com/passages/
引用元:https://fergusmccaffrey.com/exhibition/kazuo-and-fujiko-shiraga/
引用元:http://www.nak-osaka.jp/en/gutai_member_15.html
白髪富士子の展覧会
没後5年 白髪富士子 前衛美術家としての足跡
会期:2020年04月18日~2020年09月13日
会場:白髪一雄記念館
尼崎崎市総合文化センター 4階
〒660-0881 兵庫県尼崎市昭和通2丁目7番16号
http://www.archaic.or.jp/shiraga/
白髪富士子にとってのアートとは
この時代の女性が、自分のキャリアを犠牲にして夫のために尽くすのは、ごく一般的であったでしょう。
富士子は良き妻として家事と子育てを担い、夫の仕事上の交友関係にも気配りは欠くことがありませんでした。また一雄はそれが当たり前のようにふるまっていた印象も受けます。
一雄のフットペインティング制作にアシスタントは必然です。制作風景のビデオを見ると、必ず富士子の姿が映っています。 彼女は絵具チューブを切り開いて渡したり、ロープで滑っている間に新しい紙を敷き重ねたりと、素晴らしいアシスタント振りを見せています。しかし、富士子は単に制作のアシスタントだけではなかったのです。一雄に色彩や行動のアドバイスをしていて、いわば共同制作者だったことを、一雄のインタビューで明かしています。彼の生々しい赤黒い作品は、子宮や生命の誕生や生理を想起させてしまうのは、富士子の女性としての根源も含まれていたからではないでしょうか。
富士子は、公式のインタビューにはほとんど応えなかった人ですが、少しだけ自分の作品について語ったことがあります。彼女は和紙のテクスチャーがとても好きでした。洋紙とは違って柔らかさもあるし、色彩も決して真っ白ではないところに、強烈に惹かれたそうです。そして、ガラスにも魅了されていたのですが、スタジオを共有しているときに、素足でペイントしているおっとには、ガラスが割れる危険な環境を作り出していることに、罪悪感を感じたそうです。
邪魔がある環境で創るアートは、完全なものではありません。それで、富士子は自分の追求するアートを捨て、夫 一雄に気を散らすことなく絵画の道を追求してもらいたかったようです。
こうしてみると、白髪一雄の作品は、妻 富士子のアドバイスやサポートなしでは完成することはできなかったわけです。富士子が自身の制作を続けていたら、もしくは、一雄への影の協力者の立場に徹していなかったら、と空想を巡らせてはみますが、それは、私たちが行かなかったパラレルワールドにすぎないのでしょう。
参考:
https://www.artforum.com/passages/hiroko-ikegami-on-fujiko-shiraga-1928-2015-55821 https://fergusmccaffrey.com/artist/fujiko-shiraga/ https://fergusmccaffrey.com/artist/fujiko-shiraga/ http://www.archaic.or.jp/shiraga/