芸術家の恋人たち

ルース・クリグマンRuth Kligman ジャクソン、デ・クーニングたちの愛人|芸術家の恋人たち

ルース・クリグマンRuth Kligmanはどこにでもいるような誰とでも交流をもつ貧しいアメリカの抽象画家だった。しかし、彼女の名が世間に知られるようになったのは、ジャクソン・ポロックが死亡した自動車事故の唯一の生存者であることによる。

ポロックの死後もデ・クーニングをはじめとする有名芸術家と次々と付き合っていったが、クリグマンの自身の作品よりも、芸術家たちの被写体として取り上げられている。

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ルース・クリグマンの生い立ち

artnet Magazine

引用元

ルース・クリグマンはニュージャージー州のニューアークでユダヤ人家庭に生まれた。画家になったのは、幼いときにベートーベンの伝記を読んで感動し、自分も芸術家として生きていきたいと思ったからだ。

アカデミックな芸術の勉強は、20歳を過ぎてから、ニューヨークに移り、アート・スチューデンツ・リーグ、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチで学んだ。

抽象画家を目指してはいたが、画廊の雑用やモデルの仕事をして、ルームシェアをし、その日を食べていくのが精一杯だった。

クリグマンはエリザベス・テーラー似の美人だったので、モデルクラブでは一番人気だったそうだ。

クリグマンとジャクソン・ポロック

1956年の春にクリグマンとポロック(Jakson Pollock)は、当時前衛的な芸術家たちが集まるバー、シダー・タバーンで出会った。

すでにポロックはドロップ・ペインティングで有名になっていた大物で、「ジャック・ザ・ドリッパー」と呼ばれ、名声の絶頂にあった。 しかし、アルコール中毒を再発させていたのだ。

クリグマンはポロックが毎週月曜にシダーへ来ているという情報を得て、彼女の恋人と共に酒を飲んでいた。ポロックにあった瞬間、クリグマンは憧れのスターにあったように夢中になってしまった。クリグマン26歳、ポロック44歳であった。

ポロックはお酒が入れば必ず女性を口説くようなことをして、現に妻であるリー・クラスナー(Lee Krasner)ともそうして出会ったのである。次の週にはクリグマンがジャクソンのアトリエを訪ね、肉体関係を持った。クリグマンは周りが認める美人でもあったし、ポロックも妻のクラズナーと別居中なので、いとも簡単に二人の付き合いは始まった。

Ruth Kligman - Alchetron, The Free Social Encyclopedia

引用元

この写真は、ポロックとクリグマンの有名なツーショットだが、これだとイチャイチャしているその辺のおじさんとおばさんのようで残念だ。実際のクリグマンはお洒落な肉体派美人でかなりイケていた。

Pollock, De Kooning, Johns, Warhol, Kline - Their Muse and Lover

引用元

クリグマンはクラスナーがヨーロッパへ旅行中に、ポロックの家で暮らし、クラスナーのアトリエまで使っていたのだから、すごい度胸である。

それから数カ月後の1956年8月11日、ポロックは1日中飲酒していたが、友人メッツガーとクリグマンを愛車オールズモービル88に乗せ、猛スピードで衝突した。ポロックとメッツガーは死亡した。けれど、クリグマンは車から投げ出され重症を負ったが一命をとりとめた。そしてこの事故がクリグマンの名を世にだしたのだ。

クリグマンとデ・クーニング

Exhibition: YOUNG IN THE HAMPTONS: Exhibition Images

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ポロックの死後、クラズナーは暫くうつ病と不眠症に悩まされたが、彼女の抽象芸術を次々と生み出していく。

一方クリグマンは翌年の1957年からウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)と付き合い始める。クリグマンは当時の一般女性の生き方を非常に退屈だと感じ、貞節という観念はなかった。彼女の双子の妹は良妻賢母だったらしいが。

クラズナーもクリグマンもロシア系ユダヤ人家庭で育っているのに、二人の生き方は大きく違っているのには驚く。

ポロックとデ・クーニングは美術界で度々比較されるライバル関係であり、ポロックが死しても彼の残像に苦しめられたという。デ・クーニングとしては、偉大なライバルが死の直前まで一緒にいた愛人はどんなものなのか、ちょっと味見したかっただけだろう。美男美女のカップルで実によい被写体となっている。

デ・クーニングの作品「Ruth’s Zowie」は事故にあったときのクリグマンの叫びを表現している。

Willem de Kooning FoundationRuth’s Zowie, 1957  引用元

二人はキューバ、イタリア、フランスと旅行してまわり、1961年ごろまで恋人関係でいた。

フランツ・クラインとクリグマン

Franz Kline - 37 artworks - painting

引用元

ポロックと並んでアクション・ペインティングの巨匠、フランツ・クライン(Franz Klein) とクリグマンはニューヨークのスタジオを共有していた。共有といってもクラインは旅行や出張が多かったし、クラインのスタジオをクリグマンが借りていたのだろう。クラインのような大物が、スタジオを誰かと共有する必要はない。「共有」していたのは他のなにかに違いない。

クラインがリウマチ疾患で1962年に亡くなると、クリグマンは彼のスタジオを譲り受けた。

クラインもポロックもデ・クーニングも、クリグマンより20歳ほど年上で、エリザベス・テーラー似でソフィア・ローレンの雰囲気をもつ彼女は、オジサマたちの若い愛人として理想的だったようだ。

アンディ・ウォホール、ジャスパー・ジョーンズとクリグマン

クリグマンはオジサマだけにモテたわけではなく、同年代の男性にもモテモテだったということだ。

アンディ・ウォホール(Andy Warhol)、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)とも親交が長い間あり、二人はクリグマンに恋してたとのこと。

ウォホールは彼の日記の中で何度か彼女のことを取り上げており、彼女は2人が長年にわたって「お互いにものすごい恋心を抱いていた」と書いている。しかし、ウォホールはゲイである。クリグマンはウォホールのファクトリーに出入りはしてただろうが、恋愛感情を持っていたとは思えない。クリグマンの醸し出す何かの魅力、例えば、のし上がろうとする野心にウォホールは共鳴していたのではないだろうか。

Leave Warhol alone | Andy Warhol | The Guardian

Andy Warhol 1968  引用元

またジョーンズにはプロポーズを受けたことがあるという。いや、ジョーンズもゲイである。1960年代前後は、ロバート・ラウシェンバーグとラブラブな仲だったのだ。この二人の関係は長い間公にしなかったので、同じゲイ仲間のウォホールをがっかりさせていた。ジョーンズが本当にクリグマンにプロポーズしたとしたら、それはカモフラージュだったのだろう。

Jasper Johns - National Gallery of Australia

Jasper Johns 1968  引用元

カルロス・サンセグンドとクリグマン

Carlos Sansegundo | 2 Artworks at Auction | MutualArt

“Jugado de Rugby” Carlos San Segundo 1974  引用元

同い年のスペイン人画家カルロス・サンセグンド(Caros SanSegundo)と1960年代半ばから1970年代後半、約7年間結婚していた。子供はいない。

サンセグンドはパリで学び、ニューヨーク・フェア・アートのスペイン館に出展したことで、クリグマンと知り合う。

二人はイビサ島で暮らした後、ニューメキシコ州のサンタフェに移り住んだ。

ロバート・メイプルソープ、アーヴィング・ペンとクリグマン

1970年に入って再びポロックの作品が注目されると、センセーショナルなポロックの愛人、クリグマンの存在に再びスポットライトが当たる。

官能的な作品で人気のある夭折した写真家、ロバート・メイプルソープ(Robert Mapplethorpe)と、ヴォーグ誌のトップフォトグラファー、アーヴィング・ペン(Irving Pennが、クリグマンの肖像写真を制作する。

Red, Black and Silver - Hauser & WirthRobert Mapplethorpe  1972   引用元

Love Affair: A Memoir of Jackson Pollock』クリグマン著

Love affair; a memoir of Jackson Pollack [i.e. Pollock] : Kligman, Ruth :  Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

引用元

1974年、クリグマンはジャクソン・ポロックとの関係を綴ったLove Affair: A Memoir of Jackson Pollock』を出版した。 

クリグマン自身はポロックとの関係を「偉大なロマンチックな愛。この愛は私たちが最高の時に死に、二度と訪れっることはない」と語っている。

この本には晩年のポロックの苦悩も描かれてはいるが、ハーレクインロマンス風味で二人がどれだけ強く愛し合ったかという内容が多い。

あの事故から18年もたってこのような本を出したのは、ペンやメイプルソープによって再び脚光を浴び、40歳過ぎても変わらない美貌を持つ自分に自信を持ちたかったからかもしれない。クリグマンはいつも経済的に困窮していたので、金銭目的であることは確かである。そして、この本の記録が事実であることを、この頃すでに抽象表現主義の画家として有名になっていたポロック妻、クラズナーと互角に渡り合いたいという願望もあった。

クリグマンは巨匠たちとの恋愛で様々な芸術の知識や技術は学んだだろう。デ・クーニングはクリグマンのことを「私のスポンジ」と呼んだほど、デ・クーニングの表現を吸収したそうだ。

しかし、世間に彼女の名は売れても、彼女の作品は認められなかった。結局はエヴァ・ヘスから派生したグロ系の絵に明るい色彩を使用したに過ぎない。

Red, Black and Silver - Hauser & WirthDemon Disintegration I, 2000  引用元

独自のコンセプトが弱かったのか、ビジネス力にかけていたのか、付き合った大物たちの後押しが無かったのか。彼らのサポートがなかったとすれば、クリグマンは、アーティストとしての魅力は無かったのだろう。

クリグマンは「20世紀美術の天才たちは皆、私の父であり、恋人であり、息子だった」と語っている。そして、事実として50年代、60年代、70年代の多くの抽象芸術家と付き合った。芸術家の恋人と呼ばれる女性は、次から次へと恋人を変えていくことも少なくはないが、クリグマンほど巨匠たちとの付き合いが多い女性は滅多にいない。

しかし、この天才たちがクリグマンに娘や母のような愛情を感じたことはないだろう。若く美人でポロックの最後の愛人という豪華な肩書を持った女性を、自慢げにテイスティングしただけだ。まあ、クリグマンだって本気で彼らを愛していたわけではないだろうけれど。

「魔性の女」と呼ぶには、あまりにも現実的で神秘性には欠けるが、ある意味「ミューズ」であったのだろう。

けれどそれでも、冴えない抽象画家で終わってしまうクリグマンの名は世に出た。単に自己顕示欲の塊で、目的のためなら手段を択ばない女性であるとしても、彼女の恋愛手腕は才能の一つである。平凡な人生を嫌った彼女は自身の人生を満喫したであろう。あっぱれだ。

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Red, Black and Silver」ジャクソンの遺作か?

Red, black and silver, 1956, 51×61 cm by Jackson Pollock: History, Analysis  & Facts | Arthive

引用元

クリグマンはジャクソンの最後の作品と言われる「Red, Black and Silver」を所持していることでも話題になった。

この作品はポロックにしては小さいものであるが(61×51cm)、彼の得意とした技法が使われている。芝生の上で、クリグマンはポロックに花瓶と花の半完成の静物画を描いたキャンバス・ボードを渡した。ポロックはそれに銀色のアルミニウムを注ぎ、黒のフォームを落とし、赤の絵の具を素早く振りかけた制作を見ていたという。そしてこの絵は彼女に対しての愛の証だとか。この2週間後にあの自動車事故が起きた。

クリグマンがこの作品をポロックの遺作であると主張はしたが、すぐに鑑定には出さなかった。ポロック=クラスナー鑑定委員会のクラスナーが認めるはずはないと分かっていたからだ。

そもそもクラスナーがヨーロッパ旅行に行ったのは、ポロックがクリグマンとベッタリ付き合っていたからである。クラスナーはポロックと離婚するつもりはなく、生涯彼をサポートするつもりだったろう。単に冷却期間を持ちたかっただけだ。

それなのに自分が留守をいいことに、家に居座ってアトリエまで無断使用した。アーティストとは名ばかりの若く豊満な美女が夫の愛人とは、美人でない年上のクラスナーは悔しかっただろう。そして泥酔したポロックに運転を許可し、彼を死に至らしめた。そのうえ、本都市もしたらライバルであったデ・クーニングの愛人になった。クラスナーがクリグマンを否定するのは当然のことだ。許すまじ、ルース・クリグマン。

1984年にクラスナーが他界した後、クリグマンは希望をもって1980年代後半に、この絵をポロック=クラスナー鑑定委員会に持ち込んだ。この時、生活保護を受けるほど苦しい生活をしていたこともあるらしい。

ポロックの遺作であるというのはクリグマンの記憶でしかないので、有力者からの支持の手紙を集め、この絵の信憑性と出所について説得力のある学術的・科学的根拠を示した。

しかし、1995年初頭、委員会は「所有者のもっともらしい説明を裏付ける説得力のある独立した証拠はない」と、真作とは認めなかった。

けれど、クリグマンは真作を裏付ける証拠を集め続け、翌年にさらに説得力のある申請書を再提出したが、ポロックの模倣作品として決定された。

2010年3月1日、マンハッタンの病院で死亡。ルース・クリグマン80歳だった。

2012年、ポロックの生誕100年で、この絵は模倣作品としてオークションにかけられ、世間の関心をひいた。

2013年クリグマンの遺産管理人は、科学捜査の専門家と協力して「レッド、ブラック&シルバー」の鑑定を行い、クリグマンの汚名を返上するための努力を続けた。作品の絵の具には、ジャクソンの家にあった熊の敷物の毛皮の跡が付着していた。またポロックの髪の毛や、彼の家があったイースト・ハンプトン特有の砂も発見した。これらの証拠は、クリグマンが主張した時間と場所に絵画が存在したことを証明した。

しかし、それでもクラスナー派の美術家、研究家、批評家たちは、この証拠を真贋には関係ない事柄であると述べている。

クリグマンとクラスナーは死してなお、ポロックを奪い合っているように見えるが、力量の差は明らかで、何度戦ってもクリグマンは負けるだろう。クリグマンの唯一の優勢を誇る美貌も今や揮うことができない。

この絵がもし真作であるのなら、その事実を永遠に眠らせておくのもロマンチックなのかもしれない。

参考1Love Affair: A Memoir of Jackson Pollock』by Ruth Kligman

参考2

参考3

参考4

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