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岡田三郎助の妻八千代と愛人、美人画のモデルについて|芸術家の恋人たち

日本近代洋画の大家 岡田三郎助(おかだ さぶろうすけ)。

黒田清輝やラファエル・コランの影響を受け、数々の女性像を描き、東京芸術大学の前身、東京美術学校の教授でもありました。

岡田三郎助が描いた典雅な美人画像を見ていきましょう。

モデルとなった女性は妻 八千代や愛人とはどんな関係だったのでしょうか。

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岡田三郎助の美人画

「saburosuke okada」の画像検索結果手紙 1928  引用元:https://www.pinterest.com/

1970年、切手として発行されています。

「岡田三郎助 切手」の画像検索結果<引用元:https://aucfan.com/>

「saburosuke okada」の画像検索結果少女像 1908 引用元:https://www.polamuseum.or.jp/

関連画像婦人像 1909 引用元:https://fukuoka-kenbi.jp/

岡田三郎助の妻 岡田八千代

ファイル:岡田三郎助と妻 八千代.jpg引用元:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/

1906年(明治39年)に、森鴎外の世話で劇作家の岡田八千代と結婚し、渋谷区恵比寿三丁目に新世帯を構えました。

岡田八千代のプロフィール

生年:1883年12月3日

没年:1962年2月10日 享年78歳

出身地:広島市大手町

学歴:共立女子学園から成女学校

広島鎮台病院長を務める長女として生まれ、劇作家の小山内薫は兄

卒業後『明星』誌に『めぐりあひ』、『婦人界』誌に『おくつき』を発表し、作家としてデビュー。

演劇の評論の他、新派、歌舞伎の公演にも関わり、大戦中は中国へ慰問にも行き、ラジオドラマの執筆、劇の演出もしました。

代表作は自分たちの夫婦関係を基にした『絵の具の箱』で、劇作家の長谷川時雨とは生涯の親友であり、芸術分野の女性表現者の先駆者でした。

岡田三郎助・八千代夫婦の結婚生活

三郎助37歳、八千代23歳のときに二人は結婚しています。

一回り以上年の離れた夫婦はこの時代に珍しくはなかったでしょうが、三郎助は晩婚であったといえるでしょう。

フランス留学から帰国し、東京美術学校の教授に就任して、一定の収入が確保できたので、周囲の勧めもあって、結婚したのではないかと思われます。

画家と作家という夫婦の組み合わせの多くは、お互いの芸術性の追求で折り合いがつかず多くのカップルが破綻していますが、岡田夫妻も例外ではありませんでした。

結婚から20年後の1926年、二人は経済的な事情も含めて別居します。

4年後の1930年には和解をし、京都、奈良、パリへの旅行を共にしますが、復縁は失敗に終わり、三郎助だけ帰国し、八千代は1934年までフランスに逗まりました。

その後、八千代は、1939年三郎助が死去するまで、渋谷区の家には戻らず、二人の間に子供はいませんでした。

八千代の肖像画からみる夫婦の愛と関係性

三郎助は2枚の八千代の肖像画を描いています。

この2点は三郎助の画風が画壇で話題となりましたが、夫婦の関係性や思いもよく表しています。

縫いとり

「岡田三郎助 縫い取り」の画像検索結果縫いとり 1914 引用元:https://saga-museum.jp/

岡田がアトリエで針仕事をする八千代を描いた作品です。

当時、経済状態は十分ではなく、八千代は縫い物をして家計を助けていたので、この描写は実生活であったと思われます。

ただ、八千代が好んで針仕事をしていたかは不明で、この絵には三郎助の妻に対する願望が現れているようにも感じます。

美人で評判であり、芸術にも理解がある妻をもったことは、三郎助にとって幸せでしたが、その上、妻には、古典的に夫に尽くすパートナーを理想としていたのではないでしょうか。

ランプに照らされた温かい色調が、夫を支える献身的な愛を持つ妻を求めているような気がします。

支那絹の前

「岡田三郎助 支那絹の前」の画像検索結果支那絹の前 1920 引用元:https://matome.naver.jp/

八千代の着物と背景の支那絹の文様を執拗なほど描き込み、赤と青のコントラストが見事な作品です。

しかし、八千代の顔の表情は不機嫌で姿勢はポーズをとっているわけではなく、自然すぎる手や指の位置が、この夫婦の関係を暗示しているようです。

八千代の容貌はまるで「よらば斬る」といった風情を匂わせ、夫には一歩も歩み寄らない姿勢を見せ、またその姿を描く三郎助の妻を見放した視線さえ感じ取れます。

別居はこの6年後になりますが、すでにこの時期には私生活でもお互い芸術家としての譲れない一線があり、共同生活の重圧を感じていたのではないでしょうか。

岡田三郎助・八千代の愛人

岡田夫婦が別居後に、それぞれに愛人がいたという記述はありませんでしたが、画家と作家であれば、結婚していても恋人がいるのは珍しくない話でしょう。

三郎助は当時の画家としては、身なりを整えた温厚な好青年風であり、心証はかなり良かったので異性にももてたでしょうし、数々の美人をモデルにしています。

また私生活では1923年から三郎助が亡くなるまで岡田家に仕えた「おみつ」という女性がいます。彼女は実に献身的に三郎助の実生活を助けたと言われていますから、主従関係以外のことがあったのかもしれません。

八千代も劇作家として多くの俳優や芝居関係者にであっていましたから、恋愛とまでいかなくても男女の関係になったこともあるでしょう。

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日本の美人画の変化と女性の自立

「岡田三郎助」の画像検索結果引用元:https://matome.naver.jp/

岡田三郎助は明治に入ってからの「新しい美人」のスタイルを創り上げた画家の一人です。

浮世絵での美人画は面長の顔に引き目、かぎ鼻、おちょぼ口でしたが、ヨーロッパで絵画を学んできた画家たちは、西洋女性よりな美人を描いていきました。

三郎助はデパートや美人コンテストの広告も描いていましたから、大衆の目に触れることが多く、世間がイメージする「美人」の型も変化させたといわれています。

卵型の顔の輪郭にパッチリとした目、肉厚な唇は現代の美人と似通っています。

こうした顔つきからして、単に「美人」であるだけでなく、女性の意思を感じられるのではないでしょうか。

家庭や家族に尽くすことが女性の最良の生き方だとされてきた過去から、今、女性は自立心をもって自分の人生を切り開こうとしているような力強さを感じます。

妻八千代がそうであったように、三郎助は新しいスタイルの美人画を創り上げただけでなく、これからの女性の在り方を描いてしまったのではないでしょうか。

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