アンリ・マティス(Henri Matisse)は、20世紀を代表する野獣派、新印象派のフランスの画家です。
彼は、バランスの取れた静けさで、全ての精神的、肉体的疲労をとる肘掛け椅子のような芸術を目指していました。
ここでは、その作品を支えた妻アメリーと、主だったモデル兼恋人の女性たち、その作品を紹介します。マティスは84歳まで生きましたが、ベッドの上で最後まで作品を作り続けていました。その時、妻や恋人たちとはどのような関係であったのでしょうか。
アンリ・マティスの概要
引用元:phttp://www.designcurial.com/news/
アンリ・マティスは20世紀を代表する画家で「色の魔術師」と呼ばれた。
パブロ・ピカソとは生涯友人でライバルであった。
ポスト印象派として浮上し、フランスの運動フォービズムのリーダーであったが、数年で古典回帰で転向。
静物とヌードを多く描いたが、彫刻家としても高く評価されている。
マティスの妻 アメリー
帽子の女 1905年 引用元:https://galleryintell.com/artex/
アメリーをモデルにして描いた絵で、フォーヴィスムと呼ばれるきっかけとなった作品です。実はアメリーは黒い服を着ていて、この様々な色彩はマティスの創造のものでした。
ロレッテ
イタリア人の10代後半のロレッテは1916−1917年の間、モデルを務めます。彼女は長い黒髪に頬骨の高い顔立ちでした。マティスは彼女にエキゾチックな衣装やオダリスクの髪飾りをつけさせたり、様々なスタイルで、30枚近く描いています。マティス一家が南フランスに移るまで、ロレッテをモデルにしていました。
Tête de femme penchée (Lorette), 1916-1917引用元:https://www.christies.com/features/Matisse-and-his-models-9657-1.aspx
Laurette’s Head with a Coffee Cup 1917 引用元:https://www.wikiart.org/en/henri-matisse/laurette-s-head-with-a-coffee-cup/
アントワネット・アルヌード
アントワネット・アルヌードは1921年から1927年までマティスのモデルをしました。当時19歳で、細身で、世俗的な印象を持ちながらとフレンチスタイルを持ち合わせた女性でした。
マティスは、彼女に白いダチョウの羽毛を縁に巻きつけた安価な帽子をデザインしました。アルヌードは、彼女のシンプルな白い下着がボールガウンのように見えるようにして、新しい帽子を突風で身に着けました。マティスの羽毛帽子シリーズは、バリエーションのある複雑なテーマになりました。
この時期マティスは、毛皮、羽毛、布地、または綿毛の官能的な質感を、彼の作品のシンプルさと融合させるという課題を持っていました。彼は多くのスケッチをし、本質を極めることに成功しています。
マティスはこの頃から古典主義へと回帰していき、色彩と光を主題としていきました。絵の価格もピカソと並ぶほどになり、彼の公的評価が確立されました。
White Plumes, 1919 引用元:https://collections.artsmia.org/art/766/white-plumes-henri-matisse
リディア・デレクトロスカヤ
引用元:https://beautifulrus.com/lydia-delectorskaya-matisses-russian-muse/
マティスのモデルではリディアが一番有名でしょう。彼の秘書でもあり、最後を看取った女性でもあります。
リディアは1910年にシベリアで小児科医の一人娘として生まれました。12歳のとき両親をコレラで亡くし、叔母に育てられます。医者を目指しでソルボンヌ大学に入りますが、学費が支払えず無一文になってしまいました。
1932年、リディアはマチスのスタジオでアシスタントとして働き始めます。リディア25歳、マティス65歳のときでした。はじめはモデルにはなっていなかったのですが、徐々にマティスを信頼していきます。彼の仕事や私生活、家族の世話をしながらモデルをする姿は、マティスに飼いならされたという表現もあります。
あまりにもマティスの生活に深く関わっているリディアに、妻のアメリーは耐えられず「私かリディアか」の選択を迫ります。彼は妻を選び、リディアを解雇しますが、時既に遅し。1939年にマティスは妻と正式な別居をし、財産を2等分します。そしてまた、死ぬまでリディアをパートナーとして常にそばにおくことになります。
晩年の病気がちのとき、彼の切り絵のために色紙を切り抜く女性は、妻アメリーではなくリディアだったのです。
Portrait of Lydia Delectorskaya, 1947 引用元:https://www.henrimatisse.org/
Bright Lydia Delectorskaya 引用元:https://beautifulrus.com/
リディアの穏やかなサポート、確かな交際技術と秩序は、マティスの日常生活のすべての退屈さを取り除き、彼が絵画への情熱に専念できるようにしたといわれます。
マティスはリディアの絵を100枚以上描きました。彼の最後の絵はリディアにで、1954年に亡くなる前日に完成しています。彼女はマティスの家族に受け入れなかったため、彼がなくなると一緒に住んでいた家を去り、葬儀の手配も家族に任せるしかありませんでした。
リディアはマティスの死後、さらに34年間暮らし、1998年 88歳のときパリで亡くなりました。
妻アメリーの意地
マティスのモデルになった女性は数知れず、モデル達は必ずヌードにされました。娘のマルグリットも例外ではありません。彼はモデルたちの肌を至近距離で食い入るようにして見つめ、彼女たちの本性に芸術性を加えて、作品を制作しました。
一説によると、マティスはモデルたちとは肉体関係がなく、娘のように扱ったと言われています。しかし、モデルのすべてを知らずして、単純な曲線に女性のエロチズムが集約している作品が出来上がるのかは疑問です。
けれど、妻のアメリーの激しい嫉妬を考慮すると、肉体的には結ばれていなかったのかもしれません。女性は肉体関係よりも精神的に結ばれることを重要視します。リディアがマティスの人生のパートナーになったのは、許せないことだったでしょう。ライバル ピカソの妻のように、アメリーも死ぬまで誰にも妻の座を譲りませんでした。この時代の女の意地を見ているようで、小気味よく感じるのではないでしょうか。
参考:
http://www.henri-matisse.net/models.html https://www.christies.com/features/Matisse-and-his-models-9657-1.aspx https://www.smithsonianmag.com/arts-culture/matisse-and-his-models-70195044/ https://www.theartstory.org/artist/matisse-henri/