抽象表現主義の代表画家 ウィレム・デ・クーニングの妻、エレイン・デ・クーニング。
エレインの最もよく知られている作品はジョン・F・ケネディを含むダイナミックな肖像画である。しかし彼女は具象・抽象画家であり、評論家であり、教師であり、編集者でもあった。この多岐にわたる職業をこなしながら、ウィレムと並ぶ抽象絵画の代表画家である。これはエレインの結婚生活が大きく影響しているのであろうか。
エレイン・デ・クーニングの生い立ち
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エレイン・マリー・キャサリン・デ・クーニング。1918年3月12日 ニューヨークのブルックリンで生まれる。(後に生年は1920年だといっている)
父親はパン工場の工場長で、エレインは4人兄弟の長女で母親のお気に入りだった。母親は愛情深いとは言えなかったが、子供たちを美術館へ連れて行ったり、部屋には絵画を飾ったりして芸術に親しませた。
この母親はエレインを一番かわいがったのだが、精神疾患を患い医療センターに入院し、幼いエレインが妹や弟の面倒を見なければならなかった。
高校では学業、スポーツ共に優秀な成績を修め、1936年にマンハッタンにあるカレッジに入学。しかし数週間で退学し、翌年、レオナルド・ダ・ヴィンチ・あーと・スクールに通う。ここで、画家のロバート・ジョイナスと出会い、恋愛関係が終わったあとも交流は生涯続いた。
ここでエレインは政治に積極的になり共産党組織の会合に学校代表として出席するようになる。この会合で画家のミルトン・レスニックに会い、交際を始める。そしてレスニックが通っていたアメリカン・アーティスツに入学。
アメリカン・アーティスト・スクールを通して、青年共産主義同盟で活動。共産党が主催する労働者キャンプやその他の会合に頻繁に参加した。また、生活を支えるためモデル組合に加入し、アーティストのモデルとしての仕事もしていた。
すぐに学校を代わるのは教育に思想が入っていないと情熱をかんじられなかったのか、もしくは友人に感化されやすい性格だったのかもしれない。どちらにせよ、大戦前後の世界を変えようとする鼻息の荒い若者の匂いがする。
エレインとウィレム・デ・クーニングの出会いと生活
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1938年の秋、ロバート・ジョイナスの紹介でエレインとウィレムは出会った。エレイン20歳、ウィレム34歳。この美男美女のカップルはすぐに恋愛関係には発展しなかった。当時エレインはレズニックと同棲していたからだ。
エレインがウィレムのアトリエに何度も行くうちに二人は親しくなり、ウィレムが彼女のデッサンの指導を始め、同じアトリエで絵を描くことになった。このときウィレムは作品に対して正確さと優美さを厳しくエレインを教えていて、彼女の多くのデッサンを破棄させたようだ。
1943年の12月に二人は友人を呼び、ささやかな結婚式を挙げた。何度かの引っ越しのあと、1948年に、ウィレムはブラック・マウンテン・カレッジで絵画を教えることになった。エレインも彼に加わり、これは困窮していた結婚生活には喜ばしいことだった。
ここでの二人の経験は全く違っていた。ウィレムは早くニューヨークに戻りたがっていたが、エレインの制作活動は、後の抽象表現主義の画家としてのキャリアに大きな影響を与えた。
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1953 引用元
彼らの結婚生活は、オープン・マリッジと呼ばれ、多数の恋人を持つことはお互い承知だった。エレインは、有名な美術評論家ハロルド・ローゼンバーグ、美術ライターで編集長トーマス・B・ヘス、ギャラリーのオーナーであるチャールズ・イーガンなどと恋人関係だった。
これはウィレムのキャリアを後押しするためとも言われてるが、彼女自身の名を広めたことになる。この奔放は関係でウィレムのほうは婚外子までもうけている。
エレインとウィレムは共にアルコール依存症だった。
1957年に別居し、エレインはニューヨークで暮らし、ウィレムはロングアイランドでうつ病と向き合った。そしてアルコール依存症に苦しみながらも、二人は各々絵を描き続けた。
ケネディ大統領の暗殺後、エレインは絵を描くことを辞めていたこともあり、1960年半ばから、全米の大学やカレッジで教鞭を取るようになった。
20年近く別居が続いたが、離婚することはなく、1976年にまた同居し結婚生活を復活した。これは二人の仲がまた愛に目覚めたというわけではなく、ウィレムの健康状態を気にしての同居だったそうだ。(ウィレムは酷い状態であっても熱愛する恋人がいた)
エレインも再同居してからウィレムにべったりくっついていたわけでもなく、世界中を旅行して作品のインスピレーションを得ていた。
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1980 引用元
1987年に肺がんのため片方の肺を摘出。しかし治療のかいなく1988年2月に死去。70歳。このときウィレムは重度の認知症を患っており、エレインの死を認識できなかった。夫ウィレムは10年後92歳で死去。
エレイン・デ・クーニングはウィレムを愛していたのか
エレインはウィルムとの結婚に何を望んでいたのであろうか。結婚当初から「オープン・マリッジ」の約束があり、貞淑には程遠い夫婦であったので、従順な愛を築くつもりはなかっただろう。
エレインは自分を犠牲にして夫に尽くした女流画家と言われることもあったが、彼女はそれが嫌で「私はウィルムの影ではなく光だ」と公言している。これはエレインがウィルムのファム・ファタルというわけでもないだろう。エレインのおかげでウィルムが素晴らしい作品が創れたということなのか。いや、自分が偉大な画家を牽引していたと言いたいのだろう。
エレインは男性中心の芸術界を少しでも女性よりにしようと努力した。多くの職業をこなし、女性がもっと社会に貢献できることを証明した。男性の肖像画を多く描いて、話題を集めた。従来は男性画家が女性の肖像画を描くが、逆に女性画家が男性の肖像画を描き、一石を投じた。しかし、エレインがヌードをあまり描かなかったのは、残念な気もする。女性画家が男性ヌードをバンバン描く、女性視点からの男性裸体はウーマンパワーを誇示できたのではないか?男性ヌードが破廉恥という時代でもなかったはずだが。
もしかしたらエレインは、自分が女性でいるのが嫌だったのかもしれない。今までの女性としての風習、習慣、思想を打ち破ろうとはしたのだけれで、限界があるのを知っていたのだろう。だから妻としての一般的な仕事は放棄し、貞操を守ることもせず、愛煙家で病気になるほど大酒のみだった。離婚しなかったのは、有名になった「デ・クーニング」の名を手放したくなかったのではないか。これではまるで昔からいる男性芸術家である。
エレインの結婚生活が新しい愛のカタチというならば、人間としての結婚は何かを考えさせられる。
参考1 ” A Generous Vision ” by Cathy Curtis
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