日本人でありながら、フランスの画家としてエコール・ド・パリで活躍した藤田嗣治(ふじた つぐはる)もしくはレオナール・フジタ。
ピカソやモディリアーニと親交があり、藤田特有の「乳白色の肌」でフランスで知らないものはいないほどの人気を集めました。
猫と女性画を多く描き、作風の変化には妻や恋人、愛人たちの影響も大きかったと言われます。
ここでは、藤田嗣治の妻や恋人たちを紹介します。次々と妻や愛人を変えていく藤田は、ピカソと同じように女性を自分の芸術の一部としか考えていなかったのでしょうか。
鴇田登美子 (ときた とみこ) 1886-1931
引用元:http://shizubi.jp/exhibition/
藤田は1910年、東京美術学校を卒業しましたが、当時は印象派や写実主義が主流で、黒田清輝らの勢力が盛んだったため、日展にはすべて落選していました。
1911年(明治44年)、木曽へ旅行したときに、女学校の美術教師であった鴇田登美子(ときた とみこ)と出会って、2年後の1912年(藤田、とみこ26歳のとき)に結婚。とみこともに写生旅行にもでかけました。榛名湖を訪れた際に描いたと思われる油彩画『榛名湖』が2017年、千葉県市原市のとみこ生家から発見されています。
榛名湖 引用元:https://www.nikkei.com/article/
新宿百人町で一緒に暮らしますが、翌年、フランス行きを決意した藤田はとみこを残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで終わりを告げ、1916年に離婚しました。
二人は恋愛結婚であったけれど、黒田清輝主流の印象派に時代遅れを感じていた藤田は、芸術のため妻と別居します。医者の父親とは、3年の約束でパリに留学したので、始めは日本に帰ってくるつもりで、離婚する意志はなかったのでしょう。登美子は美術教師なので、きっと藤田と一緒にパリに行きたかったに違いありませんが、この時代に、女性の留学は社会的に難しかったとおもわれます。
フェルナンド・バレー Fernande Barrey1893〜1960
引用元:https://www.whosdatedwho.com/
フェルナンドは15歳のときパリに移り、娼婦として生計を立てていましたが、モディリアーニやアグローなどの画家のモデルになります。
モディリアーニ作 1917 引用元:https://www.picuki.com/
フェルナンドは、多くの画家達の勧めによって、エコール・ナショナル・スペリエール・デ・ボザールで絵画と美術史を学ぶようになります。
1917年3月にカフェでフェルナンドと出会った藤田は、人目で恋に落ちます。第一次対戦が勃発し、日本からの仕送りも途絶え極貧生活をしていた藤田をフェルナンドは無視していました。しかし、藤田がひと晩かけて作った青いコサージュを贈ってから、付き合いが始まり出会ってから13日後に結婚したそうです。
日本にいる妻登美子には、こまめに絵入りの長い手紙を書いて「浮気してないよ」と言っていたようですが、フェルナンドの魅力には勝てなかったようです。
パリからの登美子への手紙 引用元:http://inoha80.up.seesaa.net/
1918年、ドイツの爆撃を受け二人は南フランスに移り創作活動を続けていく中、芸術家の友人を増やしていきます。モディリアーニの恋人ジャンヌともこの時期知り合い、信仰を深めます。(モディリアーニが亡くなった後、フェルナンドはジャンヌを懸命にサポートしましたが、そのかいなくジャンヌは自殺しています)
この頃から藤田の絵は売れ始め、「乳白色の肌」の技法が人気を集め、サロンでも名声が高まります。
二人の夫婦関係は非常に自由なものであり、お互い恋人がいました。しかし、フェルナンドが藤田のいとこ?の画家小柳正と関係をもったことを、藤田は許しませんでした。そして、のちの妻となるリシューのところへ行って3日も帰ってきませんでした。その間、フェルナンドは藤田が死んでしまったかと思い、パリの遺体安置所を探し回ったそうです。
二人は、1928年に離婚。フェルナンドはその後小柳とモンマルトルで暮らしましたが、1935年に別れます。小柳と別れた後、二人の関係は修復され、藤田はフェルナンドが亡くなるまで、経済面で彼女を支えました。
藤田がなぜ小柳との浮気だけは許さなかった理由は、小柳がエコール・ド・パリでの仲間であったからなのか、若くかなりのイケメンだったからなのか、または彼の才能や生き方に嫉妬していたからなのかは定かではありません。
しかし、藤田がフェルナンドと暮らし始めてから、彼の画家としての才能が認められ、フェルナンドが幸運の女神であることは確かです。
リシュー・バドウ Lucie Badoud (ユキ)1903-1966
藤田とユキ 引用元:https://strangeflowers.wordpress.com/
藤田はフェルナンドと離婚した後、翌年の1929年にリシューと結婚します。リシューは美しく才知もあり芸術家仲間の間では花形的存在でした。藤田は彼女を「バラ色の雪」と称賛して、日本名の「ユキ」と呼んでいました。
ユキと猫 1923 引用元:http://nouvellesbranches.fr/
しかし、二人と親交があった詩人ロベール・デスノスをユキは愛人にします。この愛人関係は藤田公認でしたが、ユキは非常に酒癖が悪かったので1931年に離婚し、たった2年の結婚生活でした。
ユキはその後、デスノスと結婚しましたが、デスノスはナチスに連行され収容所で1945年に亡くなりました。戦後は、画家のアンリ・エスピヌーゼと暮らしました。
藤田とユキの短い結婚生活は、藤田にとってはフェルナンドへのあてつけだったような気がします。注目をいつも集めるユキを妻にしたことで、フェルナンドに勝ったつもりでいたのでしょう。ユキと藤田の間に、夫婦としての愛情があったかは疑わしいものです。
マドレーヌ ・ルクー Madeleine Lequeux 1910-1936
引用元:http://www.asahi.com/gallery/
ユキと結婚していた頃に知り合った、赤毛のダンサー、マドレーヌ。1931年、藤田は絵画作品のほとんどを三番目のユキに譲渡して、マドレーヌとともに個展開催のために南米旅行に出ました。1933年、藤田はマドレーヌを連れて帰国しました。彼女も奔放な女性で、アルコールのほかにモルヒネにも依存していましたが、ダンスも歌も上手だったのでシャンソニエとしてラジオ出演をしていました。
彼女のレコードは日本語で歌われたタンゴや和製シャンソンで、器用に日本語をマスターしているのに、語学センスの良さを感じます。
1935年、藤田と破局したことを理由にフランスに帰りましたが、これは母親の病気とモルヒネが日本ではなかなか手に入らなかったこともあります。パリで大富豪の薩摩治郎八から「藤田に新しい女ができた」と聞き、嫉妬に駆られて翌年ふたたび来日しました。このとき、君代(五番目の妻となる)の存在を知った彼女は1936年6月29日、入浴中にモルヒネ中毒起こして、27歳で死んでしまいました。
マドレーヌは藤田とは結婚できず、遠い異国で死んでしまったので薄幸の美女とも言われています。しかし、彼女の生活状態はかなりすさんでいたし、破天荒な藤田とは似合いのカップルで常人には理解できない恋愛関係だったのでしょう。
メキシコに於ける マドレーヌ 1934 引用元:https://www.musey.net/
藤田(堀内)君代 1911〜2009
引用元:https://www.asahi.com/
君代は日本橋の料亭仲居で、マドレーヌがフランスに帰国するとすく付き合い、四谷左門町に一緒に住みました。藤田嗣治の5番目の最後の妻で、藤田が50歳、君代は25歳でした。
二人はフランスへ渡りますが、第二次世界大戦が始まりまた日本に帰国。この間、藤田は、陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手掛け、のちにGHQからの追求を受け、千葉に隠れていたこともありました。
そんな日本に嫌気がさし、再びフランスへ行き、帰化します。二人は藤田が81歳で亡くなるまでの30年間を一緒に過ごし、藤田の死後の著作権を管理しました。また、パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力もつくしました。
君代は藤田の妻の中では一番若く、長い結婚生活を送った女性です。年をとったとはいえ、藤田がこれだけ長く一人の女性と婚姻関係を結んでいたのは不思議な気がします。君代との結婚生活が長かった理由は、君代が若く幼く芸術に関係した職業ではなかったからでしょうか?そして、日本人の女性として模範的な貞淑な妻であったことも理由の一つかもしれません。
藤田嗣治はなぜ沢山の妻をもったのか
藤田嗣治が何度も繰り返し結婚をしたのを不思議に思います。
離婚証明書にサインしたインクの乾かぬうちに、結婚証明書にサインをしているようなインターバルのない「結婚」です。なぜ、藤田は「結婚」というものに執着したのでしょうか?
確かに藤田は妻たちに恋をしていたようですが、夫婦の愛はなかったように感じられます。妻がいても他の女性達と肉体関係をもっていたのは、男の性だけではなく「フーフー(藤田の愛称)」としての奇抜なスタイルを守りたかったからでしょう。そうであるなら、妻の存在は愛人のためにあることになります。また、結婚することによって自分の芸術に新しいインスピレーションが宿ると盲信していたのかもしれません。(実際にそうなっていますが)
存命中に世界的に有名になった数少ない日本人画家の藤田ですが、その人生において何度も結婚しながらも、真実の夫婦の愛を知らずに亡くなったのは悲しむべきことでしょう。しかし、彼の芸術人生においては、それが必ずしも不幸とは言えないかもしれません。