世界的有名な芸術家、パブロ・ピカソは恋多き男性でした。数多くの女性と交際し、親密な関係を持った女性は公になってるだけでも、7人はいます。
ピカソと付き合った女性は、彼の偉大さに取り憑かれ、彼から離れられなかったと言います。その中では、ピカソと別れた後は人生に嫌気がさして、自殺した女性までいるほどです。
そんな超魅力をもったピカソを唯一振った女性が、フランソワーズ・ジローです。
若い時から自立心旺盛
1921年、フランソワーズは、フランスの郊外で、裕福なビジネスマンの父と水彩画家の母の間に生まれます。父親は厳格で、彼女を弁護士にするべくケンブリッジ大学やソルボンヌ大学へ通わせました。しかし、彼女は芸術にも強く惹かれていて、芸術に人生を費やすために、法科の勉強を断念しました。それを知った父親は、激怒し、彼女を家から追い出してしまったのです。
しかし、フランソワーズは、幼い頃から習っていた乗馬で生活費を賄うことにして、芸術の道に進みます。
親に感動されても、自分の好きな道を選ぶには、さぞ勇気がいったことでしょう。そして、「自分の力で生きる」という彼女の信念は生涯衰えることはありませんでした。
夢を叶えるためのキャリア志向
フランソワーズの知性と美貌に魅了されたピカソは、「一緒に居て欲しい」と同居を申し出ます。自分より40歳も年上で、別居しているとはいえ、妻子ある男性からの哀願は、お断りするのが一般的でしょう。
しかし、彼女は、ピカソの高名と芸術性は、自分のキャリアに大きくプラスになると考え、一緒に暮らし始めました。
自分の将来の夢を叶えるためには、彼の援助があるかないかでは、かなり違ってくることが、分かっていたのでしょう。この目先のことに囚われず、目標を達成する力が彼女には備わっていました。
権力に屈しない
しかし、ピカソとの生活は、穏やかで楽しいものではありませんでした。
彼との子を生んで、体が弱って笑う気力もない時に、「女は子供を産むと、ますます美しくなるのに、なんてざまだ」とピカソに罵られます。また、彼は、別居中の妻を長い間滞在させたり、他の恋人たちのもとへ出掛けて行ったりしてました。
そんなピカソに耐えきれず、別れを告げるます。すると、「お前は俺なしでは生きていけない」などと、フラれた腹いせにまたもやピカソに悪口雑言を浴びせかけられます。けれどフランソワーズは「砂漠で生きる運命なら、そこで生き抜いてみせる」と、きっぱり言い切って、ピカソの家をでていきました。
キュビズムの大御所をそでにしたら、自分が芸術世界で生き延びることは難しい予想されるでしょう。実際、ピカソは彼女が仕事ができないように、画廊やギャラリーの圧力をかけました。また、彼女が『Life is Picasso』という本を出版した時も、訴訟を起こしました。
けれど、時代はフランソワーズに味方をし、彼女の穏やかな抽象画は注目され、ピカソの訴えは敗訴となりました。彼女はピカソという高邁で不遜な権力を打ち負かしたのです。
家族の再構築
フランソワーズはピカソと別れた後、二度結婚して子供ももうけました。一人目は同年代の画家リック・シモンで、二人目は小児麻痺ワクチンの開発者として知られる医学者ジョナス・ソークです。ソークとの夫婦関係は、お互い違う分野の世界を理解し、尊重する幸せを築きました。
ピカソは彼女を「花の女」と称しましたが、フランソワーズは、苦悩に満ちた生活から抜け出し、最後まで自分の力で、幸せを勝ち取った「勝利の花の女」なのです。
まとめ
フランソワーズ・ジローの男前女子ぶりはいかがだったでしょうか?
常に自分の人生を自分で決断し、切り開いていく姿は神々しく感じますね。彼女の潔さや決して諦めない意志の強さを見習うことによって、運命が少しずつ変化していければ、と思っています。