芸術家の恋人たち

マルク・シャガールの3人の妻たち。愛の画家への妻たちの愛は?

マルク・シャガールと言えば、誰でもがまず最初にシャガール・ブルーの幻想的な絵を思い浮かべるだろう。

キュビズム、フォービズム、シュルレアリズムからモダニズムの様式を取り入れながらも、コンセプチュアルな抽象芸術には移行せず、具象芸術にこだわり続けたのも、私たちには親しみ深い。

ロシア系ユダヤ人であったシャガールは、様々な国で暮らしていたが、ユダヤ人のアイデンティティは失うことなく、多くの詩的で物語性のある彼の作品は、ユダヤ教の伝統に基づいている。

そして偉大なほかの画家たちと同じようにシャガールも波乱万丈の人生であったが、98歳まで生き延びた。その彼の長い人生を支えた女性は3人いる。

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最初の妻ベラ・ローゼンフェルド・シャガール

Marc Chagall with Bella Rosenfeld, 1934 | Marc chagall, Chagall paintings,  Chagall

引用元

ベラ・ローゼンフェルドはシャガールの最初の妻で、溺愛され、何点もの絵画のモデルになっている。彼女自身は作家であり女優であった。

1895年、ロシアのヴィテプスクで生まれ。8人兄弟の末っ子で、ベラの家は宝石商を営む豊かな家庭で育った。

1909年に二人はお互いの友達の紹介で出会ったが、同じ町に住むロシア系ユダヤ人であっても、二人の間には階級の差があった。

当時シャガールは貧しい画学生だったので、もちろん周囲は反対。しかしベラとシャガールは一目見て恋に落ちたとか。シャガールの青い奇妙な目に魅了されたとベラはのちに語っていてすぐに婚約してしまった。

ベラは当時まだ13,4歳の少女だ。(ベラの生年月日はもう少しシャガールと年が近かったという説もある)ベラが21歳の年上のシャガールに乙女な恋心を抱くのはわかる。物語にあるように、裕福なお嬢様が、生活環境が全く違う貧乏絵描きや小説家に恋してしまうのだ。しかしシャガールが少女に夢中になったのはロリータ志向だったのだろうか。

いや、二人が結婚したのはベラが18歳を迎えた年で、その後もずっとベラを愛し続けたので、少女趣味のジョン・ラスキンとは違う。それに天才芸術家というものは、若い女性をミューズにすることが多々ある。

シャガールは画家として大成するためにパリに赴く。この遠距離恋愛の間、ベラは演劇と文学を学んだ。そしてシャガールは名声を集め始め、1915年ロシアに戻り結婚。翌年には一人娘のイーダも授かる。

Marc Chagall's studios from 1923 to 1940

引用元

第一次大戦の勃発、ロシア革命により、すぐにはパリに戻れず9年後の1924年にやっとパリに戻れた。しかし、パリのシャガールのアトリエはなくなっており、残しておいた絵画もすべて処分されていて、破産状態になってしまったのだった。

しかし、これは初期作品をもう一度油絵で描き直したり、エッチングで本の挿絵を制作したりですることで、数年後にはパリでのシャガールの名を不動のものにするのだが、、、。

今度は第二次世界大戦が起こる。パリに残る芸術家たちもいたが、二人はユダヤ人なので南フランスへ逃げる。フランス国籍を剥奪され、投獄までされたが、1941年にニューヨークへ亡命。

シャガールはアメリカでも知名度はあったのだが、戦時下であり物資の不足した生活を強いられた。苦難はまだ続き、1944年、ベラが喉の感染症で亡くなる。享年49歳。

ベラは結婚後、女優や文筆の仕事をする余裕はなかったが、パリに移ってから作家活動を再開。1939年に『バーニング・ライト』がフランスでイーディッシュ語で出版された。 1946年、ベラの死後にシャガールが英語版を彼の挿絵入りで出版。

シャガールはベラの死後すぐ恋人を作ったり再婚もしたが、彼女の面影をいつまでも追い、しばしば作品に登場させた。

2番目の妻ヴァージニア・ハガード

MY LIFE WITH CHAGALL. Seven Years Of Plenty. by Virginia Haggard -  Hardcover - 1986 - from PASCALE'S BOOKS (SKU: 023904)

引用元

シャガールはベラが亡くなった次の年に、ヴァージニア・ハガードと出会った。

娘イーダはすでに結婚していたので、父親の生活の面倒を見る女性として彼女を連れてきた。

ヴァージニアはパリ生まれのイギリス人。彼女の父は元在米英国領事である。

この年、1945年、シャガール58歳、ヴァージニア30歳。若く美しく聡明で都会的なヴァージニアにシャガールはまた一目惚れしたらしい。どうやらシャガールは瞬時に恋に落ちるタイプのようだ。

しかし、この時ヴァージニアは既婚者だった。夫は、うつ病を患っているスコットランドの画家ジョン・マクニールで、娘を養うためにヴァージニアが働きにでたのだ。アメリカでも人気の有名画家に愛を乞われれば、既婚であっても「Yes」と応じるだろう。

二人の間に翌年、男の子が生まれる。デイヴィッド・マクニール。彼はのちにパリで作曲家になる。

シャガールは、活動の場をアメリカとフランスで迷っていたが、フランスで骨を埋めるため、ヴァージニアとその娘、そしてデイヴィッドを連れて1948年プロヴァンスに定住。

やっとのことでマクニールと離婚したが、ヴァージニアは田舎のプロヴァンスが気に入らず、また有名画家の妻であっても仕事をもたない主婦でいつづけることに不満が爆発。

そして、シャガールは、ユダヤ人という繊細な民族のせいでもあろうが、各地で日和見的な態度を見せ、ヴァージニアは「愛は描けても、実践はできない人」だとレッテルを貼った。

1951年シャガールのもとを子供たちを連れて去る。彼女の次の恋人はシャガールよりも年上の写真家だった。

二人は「結婚」までには至らなかったので、息子は元夫の姓を名乗っている。7年間の付き合いだったが、シャガールの一番脂ののった時期とも言われ、ヴァージニアがミューズであったことに違いない。

余談だが、シャガールの性格は悪く毒舌で、ピカソとも仲が悪かったと言われる。しかし、実際はシャガールとヴァージニアがパリに出てきたときには、ピカソと当時の恋人フランソワーズ・ジローと何度も食事をして親交を深めていた。

3番めの妻ヴァレンティーナ・ブロツキー・シャガール

Marc et Valentina Chagall en 1954 (Alexander Liberman) | Flickr

引用元

ヴァレンティーナ・ブロツキー(ヴァヴァ)はシャガールの3番目の妻(法的には2番目)で最後の妻であり、シャガールの遺産の半分を相続した。

二人の出会いはヴァージニアの時と同じで、娘のイーダがヴァージニアと別れた次の年、家政婦としてヴァヴァを連れてきた。

ヴァヴァは1905年ウクライナ生まれのロシア系ユダヤ人。両親はロンドンで製粉業を営んでおり、ヴァヴァはデザイナーだった。彼女もまた既婚者であったが、春にシャガールに出会うと、さっさと離婚してその年の夏1952年にはシャガールと結婚をしていた。シャガール65歳、ヴァヴァ47歳。

娘イーダはシャガールパパが家事能力が全くないのを知って、恋人がいなくなると間髪いれずに家政婦を送り込んできた。そしてパパシャガールは一人では暮らせない男でもあったので、掃除、洗濯、料理をしてくれる女性をすぐ好きになってしまうのだ。

彼の妻たちはみんな結構美人だが、シャガールの恋のストライクゾーンは、かなり広かったに違いない。

ヴァヴァはアーティストとしての才能が十分あって、彼女の作品も人気があり、シャガールとお互いを高め合い、情熱的に33年間を過ごしたと言われている。

しかし、一方ではヴァヴァはシャガールをコントロールし、彼を普遍的な芸術家に仕上げるためにかなり画策したという話も。そのためかシャガールはヴァヴァと結婚してから作品の幅をひろげ、オペラ座の天井画や大聖堂のステンドガラスなども制作している。晩年までの作品は驚くべきほど多かったのは、ヴァヴァのマネジメントも関係しているのだろう。

シャガールは1985年に98歳で亡くなり、ヴァヴァは1993年に88歳でこの世を去った。

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シャガール 愛の画家への妻たちの愛

シャガールは一目惚れするタイプで、女性の好みは緩かったようだ。

3人の妻たちは、それなりの外見と教養があったが、性格は全く違っていた。しかしシャガールははじめて会ったその日から、心変わりすることなくずっと彼女たちを愛し続けた。(勿論、時たま浮気はしていたが)

特に溺愛していたのは最初の妻ベラだろう。二人の映った写真はどれもうっとりと見つめ合い、絡みつくような空気を醸し出していて、見ているこちらが恥ずかしくなってしまうほどだ。

ベラは良家のお嬢様らしく、初めての恋にすっかり心酔してしまい、シャガールを愛し続けた。シャガールも彼女のために画家としての名をあげたので、ますますベラはシャガールのすべてを愛しただろう。

ヴァージニアはのちに出版した「My life with Chagalle」でも述べているように、一緒にいた7年間は実に豊かで満足していたようだ。たとえシャガールが矛盾だらけの男であっても彼女はシャガール自身を愛していた。

ヴァヴァはシャガールの人間性よりも彼の芸術的才能を非常に愛していたのだろう。天才の可能性を信じあらゆる援助を惜しまなかった。

シャガールの少々不気味に感じる大胆な色彩や構図の幻想的な多くの作品は、常に彼のとなりに彼を愛してくれている妻がいたことが漂ってくるようだ。

参考1

参考2

参考3

参考4

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