ドイツ現代美術の復活のリーダー格であったジグマー・ポルケ。
伝統的な素材や技法に囚われずに創りあげていった絵画、写真、映像、インスタレーション、版画などのポルケの作品は、資本主義リアリズムと呼ばれた。
そしてポルケの作品は辛辣で不遜でありながらユーモアもあり、社会批判だけでなく、芸術批判にまで及んだ。
ジグマー・ポルケ 生い立ちから1950年代
ジグマー・ポルケは1941年2月13日ポーランドのオエルスで生まれた。8人兄弟の一人で、父親は建築家だったが、家庭は貧しかったらしい。
1945年の終戦時に多くのドイツ人がされたようにポーランドから追放され、東ドイツのチューリンゲンに逃れた。
1953年、ポルケが12歳のときに一家で東ドイツから西ドイツへの国境を越えることに成功し、共産主義政権から逃れることができた。
ポルケは幼い頃から興味のあった美術の触れる機会が増え、1959年から1年間デュッセルドルフのステンドグラス工場で見習いとして働いた。
ジグマー・ポルケ 1960年代
1961年、20歳でデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学し、1967年までカール・オットー・ゴッツ、ヨーゼフ・ボイスに師事。彼らは古い教育構造を壊し、ドイツ美術に新しい体制を作り出し、ポルケに強い影響を与えた。
1963年、ポルケはゲルハルト・リヒター、コンラート・リューグとともに「資本主義リアリズム」運動を立ち上げた。
この運動は、資本主義と共産主義の装いをパロディにして批判した。そしてポップ・アート当時の美術界の厳格な形式主義への反発でもあった。
家具店での展覧会では、ポルケとリヒターが展示品として店のウィンドウに座っていたそうで、やはり60年代はどこの国でもグルービーだ。
Chocolate Painting 1964 引用元
当時、ドイツではポップ・アートはまだ一般化していなかったため、ポルケがポップ・アートに触れたのは、主に美術雑誌や新聞での紹介がきっかけだった。
アメリカン・ポップ・アートが有名ブランドを表示していたのに対し、すでに開封されたノーブランドのチョコレートバーを表現することを選んだ。
見た目は何ともまずそうなチョコレートだが、この共産主義と資本主義の両方を批判した作品から、資本主義的リアリズムと呼ばれるようになる。
母国を西と東に分断された者たちが感じ取れる社会批判であろう。若きポルケの熱い思想が感じられる。
1966年にベルリンでポルケの最初の個展が開かれる。この個展以降、ポルケはドイツ現代美術を牽引していくことになる。
Bunnies 1966 引用元
このドット絵はロイ・リキテンスタインのようなアメリカン・ポップ・アートからの引用であるが、ポルケはドットを拡大しわざと被写体を歪ませて曖昧にした。印刷プロセスを不安定にしで出来上がった作品は、生産と複製のプロセスに関心があるポルケの試みだ。
原案はプレイボーイ・クラブの会員募集の広告からである。しかし、近くで見ては全く分からず、観賞者たちは何が描かれているか知りたいために、絵から一歩ずつ離れて見つめていく。数メートルの間隔が空いたところで、バニーちゃんたちだと分かって不愉快の気分になる人もいるようだ。これは女性を性的な道具として扱っていることに対しての批判であるという説もある。けれど結局はプレイボーイ・クラブの宣伝になってしまったに違いない。
Potato House 1967 引用元
ポルケの彫刻で最もよく知られている作品。
格子構造の立体に本物のジャガイモを装着させたこのポテト・ハウスは、ミニマリズムに有機的要素を加えている。
ミニマリズムのシンプルすぎる地味さに悪戯しているとも言われるが、ポルケの60年代のコンセプトは何につけても「反対する」ことが多い。
ジャガイモは、ポルケの複数の作品に登場する。ドイツでは、ジャガイモは人々の主食であり、また敗戦後の荒廃の象徴でもあった。鑑賞者がこの作品の中にはいることによって、作品の意味が変容する可能性がある。日本人なら米粒をちりばめた檻型ハウスを作っても面白いかもしれない。
このポテト・ハウスの展示は展示ごとにジャガイモを用意しなければならず、美術館員を多忙にさせた。腐ってしまっても、芽が出てしまってもいけないので展示中にジャガイモの交換をする必要があった。
ポルケは美術館の融通の利かなさに常に憤慨していたので、この作品の展示でほくそえんでいただろう。また、もしジャガイモを交換しない美術館があっても、観賞者がしおれていくジャガイモをみて生命の儚さや、無機物と有機物の融合の難しさを感じ取ることを、意図したかもしれない。
The Large Cloth of Abuse 1968 引用元
ポルケはドイツ語で罵詈雑言をフランネルを何枚も縫い合わせたうえに、ジャクソン・ポロックのドリップスタイルで描いていった。
抽象表現主義とコンセプチュアル・アートの両方を批判している作品である。
ポルケはこの作品をマントのように羽織ったり、作品を裏返しにして展示した。鑑賞者はこの作品を見るために持ち上げなければならなかった。これも美術館の様々な規制、作品に触れてはいけないなどの正統と言われるルールや、そのルールを重んじているアーティストたちへの反抗であった。
ジグマー・ポルケ 1970年代
1970年代、ポルケはアフガニスタン、ブラジル、フランス、パキスタン、アメリカを訪れ、多くの写真や映像を制作した。
プロの写真家の規範を破って、ぼかし、露出オーバー、多重露光、重ね合わせ、スクラッチ、やコピーといった手法を使用した。複数のネガを同じ用紙に順番にプリントしたり、古い化学薬品を使用して予測不可能なトーンのグラデーションを作り出したりもしていた。
また、合成繊維、ラッカー、感光性化学物質などの素材と絵の具を組み合わせ、現代生活での絵画の適合性を表現した。
ポルケはこうした新しい制作方法で作り上げた結果を重視するのではなく、プロセスに焦点をおいて、予測不能の面白さを探求した。
1977年、ポルケはドイツのハンブルク美術アカデミーの教授に就任し、1991年まで在職していた。
また1978年にはケルンに移り住み、旅行には出かけたが、ケルンを終の棲家とし、残りの生涯を過ごし制作を続けた。
ジグマー・ポルケ 1980年代以降
Watchtower 1984 引用元
この監視塔は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの強制収容所のフェンスや、1989年まで東西ドイツを分断していたベルリンの壁沿いにあったものを想起させる。
酸化銀を使った化学反応で煌めきをだす写真プロセスを使った。限られた場所からしか見ることのできないタワーが見えると、まるですぐに消えてしまうかのように揺らめいて見える。
この効果は我々は監視されているが、誰によって、どのような高台から監視されているのか、確かめることはできない、という現代の不確実な不安をあおっている。
1980年代の初め、ポルケはオーストラリアと東南アジアを旅し、そこでさまざまな非伝統的な素材を発見し、キャンバス上で化学反応を起こすヒ素などを取り入れるようになった。
盟友ゲハルト・リヒターと共に、国際的に絵画をメディアとしての役割を再び持たせることに成功した。
1980年代は、ポルケの名声の絶頂期であり、彼の異端的なスタイルは多くの若いアーティストに影響を及ぼした。
1986年のヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞、2002年の高松宮殿下記念世界文化賞など、数多くの国際的な賞を受賞している。
2010年6月長患いだった癌のため69歳で逝去。
遺族は2番目の妻アウグスティナ・フォン・ナーゲル (1952年生まれ、コンテンポラリーアーティスト)と、最初の結婚でもうけた子供ゲオルクとアンナがいる。
ジグマー・ポルケの作品の所感
殆どのジグマー・ポルケの作品は一般的に美しいとは感じない。美の観念は個人で違うものであるが、芸術品への美や感動はある程度定義でき、ポルケの作品は定義外であろう。
ありとあらゆる手法を無秩序に行っていき、コンセプトを美術家たちに探らせる作業は奥深いものだが、その方向だけの芸術品でよいのだろうか。
ポルケは錬金術師のようだと評されることもある。無から有、無価値から価値、無知から博識を生み出すように様々な素材の組み合わせや、従来にない意識の実行で新しいアートを生み出してきた。ポルケが亡くなった後も、彼を引き継ぐアーティストたちが、幅広い分野を融合した作品をアートとして鑑賞者に認識させている。ポルケが現代美術の切り口をいくつも作り、それが大きな功績になっているのは確かなことである。
しかし、そこに芸術としての「美」が与えられないのは淋しい気がする。
盟友ゲハルト・リヒターの後期の作品は意外にも単純な手法を使っているが、なんらかの意味で麗しいと感じることができる。
「芸術」と「アート」の境界線になにを置くかは、個々にゆだねられるのであるが。
参考1 Sigmar Polke: photoworks: When pictures vanish
参考2 Sigmar Polke: the three lies of painting