ポール・エリュアールには結婚した3人の妻がいた。
どの妻も彼のシュルレアリズム、ダダイズムの精神を支え社会的に大きく貢献し、エリュアールに深く愛されていた。
ガラ・エリュアール・ダリ
ガラと言えばサルバドール・ダリの妻として良く知られているが、ポール・エリュアールが彼女の最初の夫である。
ガラ・エリュアール・ダリは、1894年9月、ロシアのカザンで生まれた。本名はエレーナ。
4人兄弟で父親はシベリアの金鉱で働き、ガラが10歳の時に死亡。しばらく困窮した状態だったが、母親が裕福な弁護士を恋人にしたので、経済的には潤っていた。しかし当時のロシア正教会は再婚を許さず、未亡人であるガラの母親に恋人がいることを非難し、礼拝の出席を禁じられた。
兄弟の中でガラだけがこの弁護士の義父と仲が良かった。そのせいもあり兄弟たちはガラを嫌い、彼女の運動神経が鈍いことを馬鹿にしていた。また後年、義父や兄から性的暴力を受けていたと語っている。
裕福な生活をし、お嬢さん学校で十分な教育を受けさせてもらっても、ガラの子供時代は倖せではなかったようだ。
1912年、ガラは結核のためスイスのクラヴァデルにあるサナトリウムに入院。ここにポール・エリュアールも患者として入院していたのだった。
エリュアール17歳、ガラ18歳。若い二人の情熱的なサナトリウムの恋が始まる。
エリュアールは明るく上品で教養深い彼女を「ガラ」と名付けた。また内面だけでなく「壁を貫く眼差し」と彼女の瞳を表現したところから、ガラはミューズになるべくしてなった美しくも鋭さのある容貌ももっていた。
Gala Éluard by Max Ernst 1924 引用元
有名な詩人になりたいというエリュアールの野心は、ガラの励ましと共にどんどん膨らんでいく。
1914年4月ごろには、それぞれの家に帰れるほど二人は回復しており、婚約をして一時的に別れることになった。
第一次大戦は激化しており、翌年に病弱なエリュアールでさえ徴兵された。が、様々な病気で
ほとんど病院で過ごすことになる。ガラと離れてしまうとまた病気がぶり返すとは、人の体は実に素直である。
1916年、ガラは一人でパリへ赴き、エリュアールの両親とともに住む。
1917年2月、軍隊を休んでいる間に結婚する。
暫くは甘い新婚生活を楽しんでいればいいのに、愛国心の強いエリュアールは結婚式から三日も空けず、前線へ向かう。そして今度は胸膜炎になりすぐ入院。ガラの愛の力を過信しすぎである。
1918年5月には娘のセシルが生まれ、11月には終戦と朗報が続く。
エリュアール、ガラ、セシル 引用元
残念なことにガラにとって子供や母親になるということは興味がなかったようだ。当時の一般家庭の女性の役割、良妻賢母を否定していた節がある。
このセシルはエリュアールの次の妻、ヌッシュが育てる。ガラの死に際でさえセシルの面会を拒否した悲しい事実がある。ガラにとっては子供はなんの意味もないものだったのだろうか。
ガラのシュルレアリスムへの影響力は非常に大きかった。マックス・エルンスト、マン・レイ、ジョルジョ・デ・キリコなどのエリュアールのグループの男たちを惹きつけ、ミューズと化した。
ガラとエルンストのエリュアール公認の艶聞は有名だ。
エルンスト・ガラ・エリュアール 引用元
余談だが若い娘大好きのピカソも勿論、この若く美しい才気あふれる女性を気に入った。ピカソはガラに好印象をもってもらうために、アトリエに招待して(ピカソは気に入った女性を必ずアトリエに招待する)好きな絵をあげるから選べ、と言った。するとガラは一番小さい絵を選んだ。彼女はピカソが空のマッチ箱さえ捨てられないケチンボだと知っていたのだった。大御所のご機嫌を損ねることをしない賢い女性であるガラは、生涯ピカソと良好な関係でいた。
1929年34歳の時、スペインのカダケスにあるルネ・マルグリットの邸宅で10歳年下のサルバドール・ダリと運命の出会いをしてしまう。
ガラは元々から若い芸術家が好きで、ダリともエルンストと同じように大人の恋愛であるかと思えたが、一緒に旅行に来ていたエリュアールと娘を捨てて、スペインに残る。
1932年にエリュアールと離婚。その後のガラの活躍は多くの人たちが知っているだろう。
しかしなんといってもガラの驚異的な才能は、詩人でも画家でもなかったのに、シュルレアリスト運動の顔となったことだ。シュルレアリスムのリーダー、アンドレ・ブルトンがガラを敵視して、彼女と彼女を取り巻く芸術家たちをとても嫌っていたそうだ。
ヌッシュ・エリュアール
ヌッシュとポール・エリュアール 引用元
もう一人のシュルレアリズムのミューズ、ヌッシュは、1906年6月21日にドイツ帝国のミュルーズで生まれた。本名はマリア・ベンツ。「ヌッシュ」という呼び名は父親が、ナッツを食べて歯を折った娘を愛おしく思って付けたようだ。
父親は家族経営の小さな劇場を経営していて、ヌッシュも10歳の時には学校を辞め、空中ブランコやマジックを見せていた。
第一次大戦後はベルリンの前衛的な劇場で、ダンスや端役として出演していたが、それだけでは生活していけずヌードモデルや売春もしていたらしい。
成人するとパリのグラン・ギニョール劇場で劇作家アンドレ・ド・ロードによる芝居で催眠術師や霊媒師の役を演じていた。たぶんこの芝居もグラン・ギニョールならではのおどろおどろしたものであったのだろう。
俳優として出演しても劇場からは賃金はもらえず、観客からの投げ銭しか収入がなかった。それで、ヌッシュは舞台の小道具や衣装を盗んだり、インチキ占いや売春で生活を凌いでいた。一昔前もココ・シャネルが同じようなことをして生活していたのを思い出す。パリの貧しく美しい女性たちは逞しいものだ。
1930年5月、詩人ルネ・シャールと自由で奔放な生活をしていたエリュアールは、ふらふらと街中を歩いていたヌッシュに声をかける。当時エリュアールたちはミューズを探すという名目で淫らな性を楽しむために娼館に通っていた。
エリュアールはガラがリッチな自分を捨てて、貧乏で田舎者の若造ダリのところに行ってしまいさぞ寂しかったことだろう。エルンストとの恋仲まで許していた自分に嫌悪を感じていたかもしれない。
ヌッシュは怪し気な男二人に誘われて信用はできなかったが、その日は仕事がなく食事を買う当てがなかった。カフェでクロワッサンをたらふく食べさせてもらった後、モデルの依頼を引き受けた。
こうして二人は一緒に暮らし始める。ヌッシュはエリュアールの本屋芸術品でいっぱいになったアパートに魅了され、すぐに恋におちたが、エリュアールはまだガラへの思いを引きずっていたので少し時間がかかった。ただ彼は一人になるのが怖かったので、ヌッシュを招き入れたらしい。
ヌッシュはピカソ、マン・レイ、マティス、ヴァレンタイン・ウーゴ・ミロ、ドラ・マールたちのモデルとなり、シュルレアリズムを学んでいった。優しく気遣いができる彼女は愛するエリュアールに非常に従順だった。自分を極貧の生活から救ってくれたエリュアールを崇拝さえしていた。それでエリュアールの「善良な道徳に対する反抗」というひとつの精神も否定せず、彼の友人たちと枕を交わしたのであろう。
Ady Fidelin, Man Ray, Nusch Éluard, Paul Éluard 1937 引用元
1934年8月に二人は結婚したが、子供は待たなかった。これはエリュアールが病弱で常になにかしらの病を患っていたせいもある。そしてヌッシュも不眠症に悩まされていた。
1936年から医者の勧めで執筆やコラージュを制作し始めたが、やはりシュルレアリズムは男性の活動が主だったので、彼女の作品は長らく埋もれてしまっていた。
Collages-Nusch-Eluard
エリュアールの世界的に有名な優美でありながら力強く魂を震え上がらせる詩「自由」はヌッシュに書かれたものだった。始めは最後の「自由」の代わりに「ヌッシュ」と入れてあったらしい。彼の色に完全に染まったヌッシュをエリュアールも深く愛していたのがうかがえる。
しかし戦後すぐ1946年11月にパリの路上でヌッシュは脳卒中で倒れそのまま急逝した。40歳だった。
このときエリュアールはスイスに滞在していた。
愛する夫の愛するものすべてを愛して、10年余りの短い結婚生活に幕をとじた。
ドミニク・エリュアール
ドミニクとエリュアール 引用元
ドミニクは1914年4月生まれで、本名はオデット・スザンヌ・ルモール。
1949年メキシコでの和平会議に出席していたエリュアールと出会う。ヌッシュを失ったとき自殺まで図ったエリュアールにとって、目を引くような美人ではないが、穏やかで優しげなドミニクにそばにいて欲しかったのだろう。
共にフランスへ戻り1951年に結婚。エリュアール55歳、ドミニク37歳。この結婚式にはピカソと当時の恋人フランソワーズ・ジローも出席した。いつまでもオルガと離婚しないピカソと暮らすジローにとってはかなり痛いパーティであっただろう。
ジロー、エリュアール、ドミニク、ピカソ 1951 引用元
多病のせいかエリュアールは実年齢よりもずっと老いてしまい、ドミニクとは20歳も違わないがまるで親子のように見える。しかし、旅先などの二人の写真は実に満ち足りた笑顔で写っていてとても幸せだったのだろう。
そしてエリュアールの最後の詩集「不死鳥」はドミニクに捧げられる。
1952年ポール・エリュアールは心筋梗塞のため56歳で亡くなる。わずか一年と少しの結婚生活だった。ドミニク個人についてはあまり公にされていないが、たぶんエリュアールのマネジメントをしていたのだろう。エリュアールの死後も彼の配偶者としてかなり苦労をしていたに違いない。
ドミニクは一時期メキシコに住まいを変えたりしたが、1960年にはパリに戻ってきて、2000年6月に86歳で亡くなっている。