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モディリア二の恋人ジャンヌは愛の烈女|芸術家の恋人たち

ひとりの女性に、ひたすら愛されるのって、男冥利につきますよね。常に自分のキャリアと生活を支えてくれて、尽くしてくれるのは嬉しいものです。しかし、それが激しすぎると、怖くなったりしませんか?

フランスで活動したイタリアの画家、アメデオ・モディリアニの恋人、ジャンヌ・エビュテルヌは、激越な愛をその生涯で表現しました。彼女の「愛の証」を見ていきましょう。

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純粋こそ愛の証

1898年、フランスがまだアフリカの植民地で他のヨーロッパ諸国と争っていた頃、ジャンヌはパリにある裕福な家庭に生まれました。

美しい容貌をかわれ、芸術家が集まるモンパルナスでモデルをしていたそうです。当時まだ無名だった日本の画家、藤田 嗣治のモデルも務めていました。そして兄が画家であったこともあって、芸術に目覚め美術界に入り、才覚を伸ばし始めていました。

そんな時、ジャンヌはモディリアニを紹介され、この超人的なオーラを放つ画家に、ひと目で恋に落ちてしまったのです。

ジャンヌの家族は熱心なカソリック信仰者で、モディリアニはユダヤ教。勿論、家族は大反対しましたが、彼女は恋する男の元へ走ります。

宗教の違いは、社交の場でも問題になるし、ましてやお互いを嫌い合ってるカソリック信仰とユダヤ教。これでは、家族からの縁切りは当然でしょう。その上、モディリアニは貧乏で、しかも結核を患っている病人です。こんな条件の悪い男のもとへいくのは、考えちゃいますよね。

しかし、ジャンヌは家族から勘当されても、貧しくても、伝染病で伝染るかもしれなくても、愛だけを信じ彼と暮らし始めます。

世間知らずのお金持ちのお嬢さんが、貧乏な画家とか作家と駆け落ちする話は、一昔前なら本当にあったのですね。「世間知らず」というと、聞こえが悪いですが、それだけ彼女は純粋だったということです。環境や条件だけに左右されない純愛だったのですね。

苦労こそ愛の証

他の貧乏は芸術家同様、ジャンヌが働きに出て、生活費を賄っていました。子供が二人いたので、養育費もかかったていたのです。

そして、モディリアニの乞うままに、彼のモデルするために、長時間をさいていたのです。彼女だって、画家ですから、自分の制作時間が欲しいところでしょうが、愛する彼の求めを拒んだりしませんでした。

また、モディリアニは病気治療のために、様々な薬を乱用し、アルコールも多量摂取してました。ピカソが「酔っていない姿を見たことがない」と言ったほどです。

モディリアニはジャンヌのことを「自己犠牲も厭わぬ献身ぶり」と評価し感謝はしていたようです。が、男の性なのか、芸術家としての必要性なのかは分かりませんが、数人の女性と浮気をしていました。(ジャンヌは烈女なので、彼一筋です)加えて、結婚の約束はしましたが、果たされることはありませんでした。完全なゲスい男です。

生活費、養育費、薬代、酒代の支払いに追われ、自分の絵にかける時間もないなんて、二十歳そこそこの女性には、さぞかし苦労だったことでしょう。

それでも、ジャンヌは文句一つ言うことなく、モディリアニが望むままに尽くし、彼への愛を表現したのでした。

殉死こそ愛の証

1920年、病気と薬物、アルコール濫用のためモディリアニは死亡します。ジャンヌは泣き崩れることはせず、ただ彼の顔をやさしくいつまでもなでていました。衰弱してくる恋人を毎日みているので、死がやって来るのは、理解していたのだと思います。

けれども、そのうち精神状態を平静に保っていることができなくなります。家のカーテンを引き裂いたり、壁にわけのわからない絵のような、線のようなもを描きだしていきます。

そして、アパートの6階の窓から身を投げて、自殺します。お腹の中には3人目のモディリアニとの子がいました。21歳でした。

彼がいない人生で、自分の人生はありえないと、彼女は死を選びました。どっっぷりとモディリアニに依存していたジャンヌは、暗闇に落とされ、生きる価値を失ったのです。

「あなたなしでは生きてないけない」という陳腐な言葉を実践してしまった彼女を哀れとは思いますが、その潔さには感服します。

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まとめ

ジャンヌ・エビュテルヌの「愛の烈女」ぶりは、羨ましさと怖さの両方を含んだものでは、なかったでしょうか?

彼女は激動の3年間のグランドロマンで、何もかも失いましたが、彼女が不幸だったわけではない気がします。それは、モディリアニの描いたジャンヌの肖像は、どれもが優しく微笑んで全てを包み込んでいるようだからです。

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