パブロ・ピカソをふった唯一の愛人と言われるフランソワーズ・ジローが、2023年6月101歳で波乱万丈の人生に幕を閉じた。
ピカソと別れた後2回結婚し女性としての倖せをつかみ、芸術家としても名声を得て、ピカソより10年も長生きした。ピカソと別れて正解だった、という意見が多い。
ピカソの他人に対する言動はかなりアレだったので、ピカソと別れた後のジローの人生をみると
ピカソに復讐し勝利した女神のようで清々しい気分にもなる。
しかしジローはこう言う、「私ほどパブロを愛した人間はいない。誰よりも彼を愛していた」と。
ピカソとジローの生活
1943年の春、まだドイツ軍がフランスを占領していた頃、二人はパリのレストランで出会った。ジロー21歳、ピカソ61歳。
ジローは18歳でソルボンヌ大学の哲学科を卒業するほどの秀才で、父親からは弁護士になるように命令されるも、大好きな画家の道を選んだ。このとき、大物ピカソに「アトリエに遊びにおいで」と誘われてさぞかし嬉しかったことだろう。
ピカソにとってこれは常套手段で、気に入った若い女の子がいれば、いつもこうして誘った。ただジローはただの浮気の相手ではなく、ミューズとして扱われ、3年後には一緒に住み始める。
二人の間には息子と娘もできたが、約10年間で破局を迎えた。すべての恋人を自分から離れさせなくさせるピカソだが、ジローのほうから別れを切り出したのだ。彼女の固い決意を聞いたとき、ピカソは暴れ狂って泣いてすがったとか。これが、ピカソをふった唯一の女性として有名な所以だ。
ピカソとジローの生活は、始めから不倫プラスその他の恋人大勢の環境で、別れるまで変わらなかった。気の強いジローは自分がピカソに一番愛されていると自負していて、彼の妻や恋人たちのことを見下していたようだ。しかし、常に服従しなければならない関係に我慢できず、ピカソのもとを去る。
ピカソを取り巻く画商たちはジローの作品をあつかわなくなったが、二人は別れてからも古い友人のような付き合いをしていた。ピカソの妻オルガが亡くなって、彼は結婚を申し込んできた。子供たちのためには父親が必要だと考えていたジローは、そのプロポーズを承諾しようとしていた矢先に、ピカソはほかの女性と結婚してしまった。自分を袖にした意趣返しだ。こういう子供じみたことをするから、ピカソは女性の敵だと思われてしまう。
ジローはこのあとピカソとの生活を綴った「Life with Picasso」を出版。この本はベストセラーになるが、暴露本という感じではなく、主にピカソのビジネスや友人関係の話だ。ピカソはこの本の差し押さえを求めるも敗訴した。「ジローにはかなわない」と潔く自分の負けをみとめたが、この事件以来、ジローはもちろんのこと非常に可愛がっていた二人の子供にも一切合わなくなった。
しかし、ピカソの死後から6年の月日を経て、この二人の子供はピカソの遺産の一割を相続した。。息子クロウドはピカソの作品と財産を管理し、娘のパロマはデザイナーになっている。
ジローの夫 リューク・シモン
ピカソと別れて2年後の1955年、33歳で芸術家のリューク・シモンと結婚。
シモンはジローより3歳年下で、絵画、版画、彫刻、工芸、そして俳優と幅広い分野をこなすハンサムな青年だ。父親はノートルダム大聖堂のステンドグラスを何枚も制作したジャック・シモン。代々、フランスの大聖堂のステンドグラスを請け負うガラス職人の一族である。
以前から知り合いであったろうこの二人がピカソとの別れの後に急接近。長い間老人と暮らしてきたジローには、若く美しいシモンが、とても魅力的に見えただろう。40歳離れた男と別れた後は、年下のイケメンと暮らす。「恋に年齢は関係ないわ」といういかにもフランス風恋愛志向ともいえる。翌年には娘が生まれ、彼女はのちに建築家になっている。
この時期ピカソ系の画商に干されていたジローにとって、伝統芸術を土台とするシモン一族の後ろ盾は、かなり心強かったであろう。
しかし芸術家の伝統を守り続けるシモン一家とは肌が合わず、シモンはジローに一般的な妻として母として、を求めていたので、次第に二人の仲は冷えていった。
この結婚は1962年で終わるが、この娘とも生涯親しい関係を保っていた。(ジローは自分の血を分けた子供が全部で3人いるが、彼女は子供が欲しいと思ったことはなかったそうだ)
シモンはジローと別れたあと、俳優の仕事にも力を注ぎ「ランスロット・デュ・ラック」という映画で主演となる。彼も長生きで87歳没。
2番目の夫はポリオワクチンのジョナス・ソーク
1969年、カルフォルニア州ラホーヤの友人宅でポリオワクチンを開発したジョナス・ソーク博士と出会う。この時ソークがジローに興味をもち、自分の研究所のプライベートツアーに招待する。面白いことに、ソークは芸術のことはあまり知らず、ジローは科学のことをよく知らなかった。しかし、二人には近代建築への関心が同じテイストで気が合ったそうだ。
翌年、ジロー48歳、ソーク56歳、パリで結婚式をあげる急展開だった。この結婚式には二人の子供たち計6人も一緒に参加するという微笑ましいものだった。
彼らの結婚生活は始めから取り決めがあった。これはジローからの提案をソークが承諾したということになる。家庭より仕事を常に優先し、一年中一緒に住まない。ソークは研究所があるラホーヤにいて、ジローはパリやニューヨークで活動した。それでも一年のうち半年ぐらいは一緒に暮らして、その時間は二人の安息のときであったと話している。
ジローと結婚してからソークは変化した。いつも気難しい顔ばかりしていたのが、よく笑うようになり、服装にも気を遣い、おしゃれになった。やはり円満な恋愛は人を良いほうへ変える。ジローもソークにたっぷり愛されているのを感じながら「私だけが彼の理解者で、彼の孤独を埋めてあげられる」と倖せ自慢をしていた。
もちろん世界的に名が知られているこの二人には様々な噂や中傷が飛び交っていたが、彼らは着実に自分たちの宇宙を作っていき、世間とうまく調和していった。
ソークが80歳で亡くなるまで二人は普通とは異なった夫婦であり続け、その後ジローは結婚していない。
フランソワーズ・ジローは誰を一番愛したのか
ジローは知的で教養が高く、実行力と情熱を持ち合わせたポジティブな女性である。そして、援助なしでも自分のしたいことは行動する逞しさも持っている。さらに付け加えれば、美人である。90歳過ぎても、深紅のルージュが良く似合う凛としたパリジェンヌだった。
こんなに多くの長所をもった女性なら、たった一目で天才と呼ばれる男たちを捕まえても納得がいく。ずば抜けた才能を持つパートナーを何度ももてる理由は、「ライオンはライオンとメイトし、ネズミとはしない」らしい。この言い方はネズミを小馬鹿にしているような気がするが、同種族は惹かれ合う、だから私はすごい男に釣り合ったすごい女なのよ、という意味だろう。ジローもピカソに負けず劣らずなかなか傲慢な人格なのだ。
だからピカソとの暮らしは言葉のナイフの応酬だったであろう。しかし、その生活でいつも一歩引いていたのはジローだった。彼女もピカソの大勢の恋人たちと同じように、精神的にピカソに依存していたからだ。最後には彼の言葉は絶対となり服従してしまうのは、ジローが子供時代から父親の命令には逆らえなかったという経験を持っていたせいもある。けれど彼女がピカソから離れられなかったのは、自分が持っていない優れた遺伝子を嗅ぎ分けてしまったメスの本能に違いない。この本能が覚醒すると相手がどんな非常識な男であっても恋に落ちる。ジローがどんなに努力しても手にすることのできない能力をピカソは持っていた。そして不幸にも彼女はそれを感じ、それに支配されてしまったのだ。
こうなってしまうともうピカソからは逃れられない。それだから他の恋人や妻たちはピカソなしでは生きられなかった。
しかし、ジローはピカソに依存し支配されることは、全く自分ではないと苦しんでいた。自分自身であるために、本能的にピカソを愛していても彼から離れていったのだ。
その後、結婚したシモンとは結婚生活や家庭を築くということが何たるかが、わからなかっただろう。ソークはジローの自分基本の生き方を受け入れたので、愛情に包まれ家族や友人たちにも避難されることはなかった。ジローにとってソークとの結婚生活は理想の現実化であっただろう。
けれどフランソワーズ・ジローの訃報の見出しはどれも「ジョナス・ソーク夫人亡くなる」ではなく「ピカソをふった恋人」であった。これは、ピカソの呪縛から逃れられた唯一の女性という称賛の言葉であると受け取りたい。
参考1 ”Life with Picasso” Francoise Gilot and Carlton Lake
参考2 ” the woman who says No” Malte Hawing