アメリカ抽象表現主義の第一人者、ジャクソン・ポロック。
その妻 リー・クラズナーも抽象表現主義の画家であった。ポロックが夭逝した後に、アメリカ女流三大画家の一人となり、「表現主義の母なる勇気」とも呼ばれた。
そして彼女は死ぬまでポロックの妻であった。
リー・クラズナー 生い立ち
本名はレナ、もしくはレノア・クラズナー。
出生名はレナであるが、18歳ごろから「自立した女性」という意味と、ファンだったエドガー・アラン・ポーの詩「レノア」の名をとって自らレノアと呼ぶ。
1908年10月27日、ニューヨークのブルックリンで6人兄弟の末っ子として生まれた。両親は現ウクライナのロシア系ユダヤ人移民。反ユダヤ主義と日露戦争から逃れるためにアメリカに亡命した。
幼いころから芸術家を目指していたクラズナーは、奨学金でクーパー・ユニオンの美術学校に入学。その後は国立デザインアカデミーに通い多岐にわたる芸術の知識と技法を身につけた。
自画像 1928 引用元
1929年にニューヨーク近代美術館が新設され、そこで開かれたポスト印象派展がモダンアートへの深い関心に繋がる。1937年29歳のときには、ハンス・ホフマンの授業を受け、現代武術を学んでいく。
こうしてクラズナーは構図、技法、理論をアカデミックからモダンまでばっちり学んだ。10年以上も勉強を重ねる辛抱強さは見上げたものである。そのうえ、この時代は男尊女卑が今よりもずっと厳しく、クラズナーがかなりよい作品を創っても「女性にしては」や「女性とは思えないほどの」という前置きがついていた。
ジャクソン・ポロックとリー・クラズナーの生活
1950年代 ポロックとクラズナー 引用元
クラズナーとポロックはニューヨークのグリニッジヴィレッジにすんでいて、二人の家は1ブロックしか離れていなかった。1936年、あるパーティで酔ったポロックはクラズナーを口説こうとしたのが、二人の初めての出会いだった。
その5年後、1943年にまだ無名だったポロックのアトリエを訪れ、同じグループ展に参加したのをきっかけに同棲する。
ポロックは20代前半ですでにアルコール中毒患者であったから、初めの出会いで随分と下品にクラズナーを口説いたに違いない。毅然としたクラズナーが、それでもポロックに会いに行ったのは、彼の作品が魅力的であっただけでなく、恋してしまったのだろう。
ポロックもまた4歳年上のクラズナーの全てのジャンルを網羅した知識に魅了された。クラズナーはポロックの才能を高く評価していたし、出会った頃はポロックはハンサムの片鱗が残っていた。怜悧で才能もあったけれど、美人でないクラズナーは男性たちからは煙たがられていたので、ポロックとの出会いによって、二人の素晴らしい未来を夢見ただろう。
ポロック 20代の頃 引用元
1945年ニューヨーク州ロングアイランドにある今でも人口が一万に満たない小さな村に引っ越す。二人とも自然重視は田舎で育ったこともあり子供時代からだった。またラルフ・ウォルド・エマーソンの超絶主義にも影響されていた。
そして二人は結婚する。自家農園栽培や海辺や野原の散歩など、二人が望んでいた自然に浸りきった生活を始め、見て、触れて、感じて、自分の内面と融合を絵画に表現していったのだった。
ポロック・クラズナーハウス 引用元
クラズナーとポロックは同じ自然を見て、同じように感じていたそうだ。生物学上、どんなに愛し合っていても同じ色の夕日は認識できないわけだが、同じ感覚は分かち合えたようだ。
リー・クラズナー 「ナイト・ジャーニー」1947 引用元
ジャクソン・ポロック 「ギャラクシー」 1947 引用元
真夜中に二人で起きて何時間も月の光を浴びながらポーチのベンチで寄り添った後の作品。うっとりするほどロマンチックだ。完全に映画のワンシーンを現実で実行している。
結婚した数年間はポロックは禁酒もでき二人は清く正しく創作にのめり込んでいけていた。しかし、1950年にポロックの代表的なスタイルとなるドリップ・ペインティング技法で作品を創り始め、大きなプレッシャーからまたアル中状態に戻ってしまう。
自宅でのポロックのドロップ・ペインティングの制作 引用元
クラズナーは心底ポロックの才能を信じていたので、結婚前から師であるホフマンや画商、批評家など次々と紹介していた。そしてこのペインティング技法でポロックは名をあげたが、評判は賞賛と嘲笑の連続となった。
高評価はもちろんこのアクション・ペインティングの芸術への新しい解釈だが、低評価は作品の知的部分の欠如などをあげていたが、これは批評家の個人的な恨みが入っていたりもした。例えば自分の奥さんをポロックに寝取られたためとか、、、、。
ポロックは元々女性を引き付けるタイプであるので、ドリップ・ペインティングで有名になったことによって、複数の恋人をつくる。創作の重圧から逃れるための酒と女の再開で、クラズナーとの誠実な愛の形は終わってしまう。新婚時代はクラズナーが料理をし、ポロックがお菓子を焼いていた微笑ましい家庭であったのに。
クラズナーはポロックと結婚してから、ポロックのサポートにまわり自分の創作はしていなかったとも言われているが、そうでもない。
ポロックが批評家やコレクターから認められるようになったのは、彼女の支援と忍耐のおかげだった。しかし、クラズナーはポロックの作品は売り込んでも、自分の作品も売るこむことはしなかった。そして「ポロックの二番煎じ」と批判され興味をもってもらえなくても、「そうかもしれない」と受け入れていたのだった。
クラズナーのこうした様子をみると、ロシア系ユダヤ女性は、実に謙虚で誠実だと思えてしまう
二人の結婚は1956年で終わる。決定的だったのは現代美術画家のルース・クリグマンと付き合い始めたからだ。この若く美人な画家(毒婦のようにも見えるが)にべったりとくっつき、作品も創れず、喚き散らす夫の傍にはいられなかった。
ルース・クリグマン 引用元
クラズナーがポロックから去った二か月後、二人の関係は完全に終わる。ポロックは泥酔状態でクリグマンと友人たちでドライブに出かけ、大木に激突し44歳でこの世を去る。
クラズナーはこの悲報をパリ郊外で受け取った。
リー・クラズナーの愛のかたち
ポロックが交通事故で亡くなった後、クラズナーは大胆で陽気な絵を描くようになった。
彼女自身が自分の人生を生き始め、夫がかつてドロップ・ペインティング技法を発明した同じ納屋で、最高の作品を次々と生み出していった。
そして、アメリカ女流抽象表現主義の代表的な芸術家として、必ず名が上がるまでになる。
クラズナーの活躍が注目を集めるようになったのは50歳を過ぎてからで、それまでのポロックとの生活は彼女の芸術家としての生き方を邪魔していたのだろうか。
クラズナーはポロックの死を知った瞬間、彼の名を叫び泣き崩れたという。
クラズナーがヨーロッパへ行ったのもポロックとの決別を意味していたのではなく、単なる冷却期間を持ちたかっただけだったのではないだろうか。
しかしポロックはクラズナーという守護天使に見捨てられたと思い、自暴自棄になり、あの事故は自殺ではなかったか、という説もある。
クラズナーはポロックから離れたことをさぞかし後悔しただろう。
二人の間に子供はいなかった。ポロックは子供が欲しかったのだが、クラズナーは芸術だけに専念したいため合意しなかった。それで彼らの生活にはいつも犬がいたのだ。
子を持たなかった本当に理由は単純にクラズナーが不妊症であったのかもしれないし、ポロックに肉体的問題があったのかもしれない。
けれど、もっとたやすく察すれば、クラズナーは気難しく短気でアルコール依存症の夫の面倒と子育てを両立する自信がなかったのだろう。
この夫婦の優秀な遺伝子を後世に残さなかったのは残念なことだ。
クラズナーはポロックの死後も彼の悪行を決して責めることはせず、自分に沢山のものを与えてくれたと感謝している。
多大な忍耐と共に夫の才能を信じてサポートし続けたクラズナーは慈悲深いすべてを包み込む女神だったのか、それともダメンズに自分の人生のすべてを捧げてしまう依存体質の女性だったのか。
いや、彼女はただ少女のようにポロックに恋していたのだ。遺伝子レベルで惹かれていながら、複雑な恋愛感情が生まれることもなく、唯々ポロックに恋をした。その想いはクラズナーが亡くなる75歳まで続いたに違いない。
参考1 「LEE KRASNER 」 Gail Levin