現代美術

アンドリュー・ワイエスの画像からみるヘルガとの関係を考察|ヘルガについて

アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth)は、20世紀のアメリカン・リアリズムの代表的画家です。1917年に生まれ2009年に91歳で亡くなりました。鉛筆、水彩、テンペラ、ドライブラシなどで、アメリカ東部の風景や人々を描き、写実表現での大きな位置を占めています。

ワイエスはヘルガというモデルを使って、15年もの間、245点の絵を描きました。しかし、お互いの配偶者たちには、この制作は秘密であったので、大きな話題となりました。

ヘルガとは、どんな人だったのでしょうか?またヘルガはどんな気持ちで、ワイエスのモデルをしていたのでしょうか?

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ヘルガ・テストーフについて

ヘルガ ワイエス 妻ベッツイ

 

1933年 ドイツ生まれ。

1955年 父親の勧めで、プロシアンプロテスタント修道院に入る。その後、重病にかかり、修道院を出て、マサチューセットで、看護士とマッサージの勉強をする。

1957年 ドイツ生まれで、アメリカ市民権を持つ、ジョン・テストーフと出会う。

1958年 ジョン・テストーフと結婚。

1961年 フィラデルフィアに住み、皮なめし工場で働くが、すぐにチャドフォードに移る。そこで4人の子供と共に家族と暮らす。そして、ワイエスの隣人だった、農業を営む高齢だったカール・クエイナーの世話をする。

1971年 ワイエスからモデルになって欲しいとの申込みがあり、1985年までの15年間、ワイエスのモデルを務めた。

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ヘルガは何故、芸術的な「15年間の密会」をしたのか

In the Orchard

 

ワイエスがヘルガをモデルにした時、ヘルガは38歳でした。彼女の容貌は、ドイツ系の厳つい顔立ちに、子供を生んだ後の下半身の脂肪がたっぷりとついている体型でした。若くも美しくもない彼女にとって、写実主義の巨匠からの申し出は、驚きであり、喜びでもあったでしょう。

しかし、ワイエスのモデルになるのは、ヌードもありますから、戸惑いもありました。そこでワイエスに「何故ステップアップしようとしないの?」と問われて、決心がついたようです。毎日、製粉工場で低賃金で働き、週に数回老人の世話をするのでは、生活は苦しかったでしょう。モデルをすれば副収入が入るわけです。モデルとして雇ってくれるのは、有名な画家です。ヘルガにとって、モデルをすることは、現状よりに少しの冨と名声を加えることができたわけです。

farm road

 

モデルをしている15年間、ヘルガが誰にも口外しなかったのは、ワイエスとの約束事であったのではないかと思われます。ワイエスは制作現場を人に見られるのを大変嫌がりましたので、まわりからの干渉を避けたかったのでしょう。

「15年の秘密」理由は、「モデルをしていることが世間に知れ、それが話題にのぼると、ヘルガが変化してしまうのを恐れた」とワイエスは言っています。けれど、公表していなくても、ヘルガは変化しています。現代アメリカ美術の代表的画家のモデルであるという自身が彼女をダイナミックに美しくさせたようです。

barracoon

 

二人の肉体関係はなかったと推測されています。恋人ではなく、芸術的な関係のみであったという説が有力ですが、これはワイエス側の立場から言えることで、ヘルガの気持ちはどうだったのでしょうか?

モデルをしていることを口外しなかったのは、この仕事を失わないための金銭的なことだけだったのではないと、私は推察します。

自分の美しさをひとつひとつ長い間かけて、描いていく男性を愛おしいと思うのは、女性として当然の感情です。ヘルガはワイエスを芸術家として尊敬し、男性として愛していたに違いありません。

daydream

 

この「ヘルガシリーズ」が完成したあとも、彼女はワイエスの近くに逗まり、年をとってきて不自由になってきたワイエスの生活を助けています。

そして、ワイエスの90歳の誕生パーティに、出席するかどうか尋ねられた時には、

「ええ、勿論、絶対に出席するわ。彼の家族は私が来るのを嫌がるだろうけど」と答えています。

きっと、ヘルガはワイエスを愛していて、ずっと彼の側にいたかったのだろうと感じます。

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