現代美術

クリストファー・ウール 暗号のような絵にワクワク?!ポストモダニズム

ポストモダニズムのクリストファー・ウールは、1980年から絵画、彫刻、写真と幅広く活動しています。

ウールの作品は、はっきりとした同じ色、形、パターンが繰り返され抽象作品とは何か、どのように制作すべきか、そして鑑賞者によって与えられる影響までも考慮して作られています。彼の抽象作品は商業的には成功していますが、批評家からは絶賛と非難との両極端に分かれているようです。

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クリストファー・ウール 生い立ち

Christopher Wool Paintings, Bio, Ideas | TheArtStory

引用元

ウールは1955年にイリノイ州シカゴで生まれました。父親は精神科医で分子生物学者でした。

高校で写真と芸術を学び始め、美術教師の一人が、モホリ=ナジ・ラースローでした。

モホリ=ナジ・ラースロー 1895-1946

ハンガリー出身の写真家、画家、タイポグラファー、美術教育家。ハンガリー革命でドイツに亡命し、バウハウスの教授となる。ナチス政権のため1937年にアメリカに亡命。シカゴで、ニュー・バウハウスを設立し、バウハウスのデザイン教育理念を根付かせ、理念は現在まで受け継がれている。

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引用元

17歳で、ニューヨークのサラローレンス大学でリチャード・プゼット・ダートと一緒に絵画と写真を学び始めましたが、翌年には中退してニューヨークスタジオスクールに入学。ここで抽象表現主義の影響を受けた教師から技術とスタイルを学びました。しかし後にウールは、教師が教えてくれたことをすべて拒否していたと明かします。当時彼が従った唯一のアドバイスは、アーティストは苦難に関係なく、自分の道を継続的かつ独立して進むべきであるというプゼット・ダートの考えであったそうです。

ニューヨークスタジオスクールを卒業した後、ウールはニューヨークのアンダーグラウンド映画と音楽シーンに熱中しました。この頃、イーストビレッジのパンクロックシーンから生まれたアートは、ギャラリーグラフィティ、パフォーマンスアート、その他のミックスメディアとして芸術的な価値を見出し始めました。

ウールはニューヨーク大学で映画を学ぶために入学しましたが、また教育への不信感が沸き上がり、中退してしまいました。彼は学ぶことは嫌ではなかったようですが、学校のカリキュラムや教師たちが好きにはなれなかったようですね。

クリストファー・ウール 1980年代

1976年、チャイナタウンのチャタムスクエアにスタジオを借り、独自の芸術的語彙を作成し始めました。

1980年から1984年の間、彫刻家のジョエル・シャピロのスタジオアシスタントとして働き、シンプルなシャピロの彫刻に大きな影響を受けました。この時期、ウールは多くの美術展に参加し、芸術的対話に没頭し、それがウールの抽象絵画理念につながったそうです。

Pin on Word Art

引用元

1987年からウール作品で最も有名な「ワード ペインティング」の作成を開始しました。ニューヨークを走る白い配達トラックに、黒字で落書きされているのを見て触発されました。

ウールは、看板、落書き、広告など、公共の場でのディスプレイによって言葉がどのように変化するかに興味を持っていて、母音の削除や単語の分割を行いました。言葉遊びや謎解きのような世界に入り込めて、ちょっとした冒険をしている気分にもなれるでしょう。

クリストファー・ウール 1990年以降

1980年代後半にローマに滞在していましたが、1991年、ニューヨークに戻りスタジオを構えます。このスタジオがあるイーストナインストリートは、彼の創作意欲をよく刺激してくれるそうです。

1997年、ドイツ人の抽象画家、シャーリーン・フォン・ハイルと結婚しています。

シャーリー・フォン・ハイル

1960年生まれ。ドイツのアブストラクト画家。1990年にアメリカに移住し、ドローイング、版画、コラージュも制作しています。

現在もニューヨークとテキサス州マーファにスタジオを構え、妻のシャーリーとともに創作を続けています。

クリストファー・ウールの作品

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無口なクリストファー・ウール

ウールがアート界に登場したとき、同期にはジェフ・クーンズジェームズ・ネレスがいました。しかし、この時代の人気分野、ポップカルチャーやマスカルチャーのカテゴリーには入っていません。代わりに、彼は絵画のプロセスそのものに重点を置くことによって、芸術的な拡大を目指しています。

ウールは彼の私生活や人間関係について話すことはめったにありません。仕事においても、インタビューをなるべく避け、社交イベントからも可能な限り距離を置いています。作品のプロセスや意図については殆ど明らかにしていません。

このような言動は、内気な性格なのか、秘密主義を良しとしているのか、はたまた超合理的な生き方をしているのか、どうかは関係がないようです。彼の作品自体が鑑賞者の求める質問の答えを明らかにしている主張しています。しかし、このような面が彼の作品評価が二つに分かれることに繋がっているのかもしれませんね。

参考1

参考2

参考3

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