幕末の長州藩士で明治維新の指導者であった桂小五郎(かつら こごろう)、後の木戸孝允(きど たかよし)。
桂は、「逃げの小五郎」と呼ばれるほど、逃げの名人といわれています。幕府に追われ各地を転々とし、無謀な争いを避け続けたのは保身だけでなく信念に基づいた得策であったようです。
この「逃げの小五郎」は私生活においても逃げる姿勢で、女性関係からも逃げていたのでしょうか?
桂小五郎、木戸孝允の結婚した妻 幾松や隠し妻を「逃げ」の視点から楽しくみていきます。また子供、子孫をエピソードを含めて紹介します。
桂小五郎の妻 幾松 木戸松子
引用元:https://meiji-revolution.com/
生年:1843年(天保14年)11月22日
没年:1889年(明治19年)4月10日 享年46歳
出身地:京都府上京区
松子の父親は若狭小浜藩士でしたが、藩内の事件から閉門にされ、松子は難波常二郎の養女となりました。常二郎の妻がもと芸姑であったことから、松子も14歳で舞妓となりのちに「幾松」を襲名。
松子は美しく聡明で芸妓も秀でていたので大変人気があり、小五郎も足繁く通うひとりでした。しかし、ライバルは多く、なかなか松子を自分だけのものにできない小五郎は、藩の後輩格で同志の伊藤博文に頼み、ライバルの山科の豪家を刀で脅して身を引かせます。これで、松子は小五郎だけの恋人になるのですが、彼女を得るために、自分は手を汚さないで後輩にやらせるところが「逃げ」ですよね。
小五郎が松子と結婚したのはそれから約10年後のことです。幾度も小五郎の危機を救った恋人を待たせすぎた感じもしますが、過激な政治情勢でし、身分も違ったので仕方なかったのでしょう。
小五郎は始めのうちは松子の外見だけに惚れていて、心を通わせていたわけではなく、松子の献身的な働きによってやっと生涯のパートナーが松子であると理解できたと推測されます。
43歳という若さで小五郎がなくなった後、松子は尼になり13年後46歳で亡くなっています。松子は大和撫子の鏡のような女性ですね。
桂小五郎の隠し妻
新選組の追手から逃れるために、小五郎は兵庫県出石に身を隠していました。
松子は小五郎に会うため、600キロの道のりを歩いて行きましたが、目にしたのは13歳の幼妻と一緒に暮らしている小五郎でした。
この時代の女性の結婚は早かったとはいえ、結婚が何たるかもわからない年で男性と一緒に暮らすのは、かなり早熟です。小五郎と松子も10歳違いますから、小五郎は少女趣味だったのかもしれません。
ここで修羅場となるとおもいきや、二人の女性は大人の対応です。松子はこの少女に「みんなで一緒に長州に帰りましょう」といい、この少女は「小五郎と別れる」とすんなり決まりました。こういう場合は、男性の責任なのですから、小五郎がうまくまとめるべきでしょうが「逃げ」でまたもやうまくいってしまいました。
桂小五郎の子供
小五郎と松子の間には子供はできませんでした。
小五郎の愛人の子供、好子を養女にしています。また息子も養子をとっていて、松子の妹の子供の忠太郎、(満鉄資質研究所所長)、正二郎(ロンドンに留学するが夭折)、孝正(貴族院侯爵議員、東宮侍従長)がいます。
桂小五郎の子孫
孫 木戸幸一 (きど こういち)1889ー1977
引用元:https://twitter.com/
木戸孝正の息子。昭和天皇の側近のひとりとして、初代厚生大臣を努めます。第二次世界大戦前後の政治に関与し、敗戦後、戦争犯罪容疑でA級戦犯になりましたが、わずか1票差で死刑を免れました。息子の木戸孝彦(弁護士、ゼロックス会長)が東京裁判のときに弁護しています。
孫 和田小六 (わだ ころく) 1890〜1952
木戸孝正の次男。長距離飛行の世界記録を打ち立てた航研機の開発、東京帝国大学航空研究所長として、日本の航空工学の発展に貢献した工学者です。小五郎の生家である和田家を継ぐため、和田小六に改名しました。
ひ孫 木戸孝澄 (きど たかすみ)
日本勧業角丸証券株式会社(現みずほ証券常務)
玄孫 濱本松子 (はまもと まつこ)
孝澄の長女で、学習院大学卒業。1990年に宮内庁侍従職御用掛就任。2004年から2013年まで宮内庁侍従職 女官長を務めています。
来孫 木戸寛孝 (きど ひろたか)
引用元:https://kamakura-gathering.com/people/
1969年生まれ。慶應法学部卒業。桂小五郎の直系6代目。
株式会社umari コンセプトデザイナー。NPO法人 世界連邦21世紀フォーラム理事長。現在、神奈川県逗子市に在住。