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ココ・シャネルの恋人たち。本当は結婚したかったの・・・|芸術家の恋人たち

フランスのファッション・デザイナー、シャネルブランドの創設者ガブリエル・ボヌール・「ココ」・シャネルGabrielle Bonheur “Coco” Chanel、1883年8月19日 – 1971年1月10日 享年87歳)

女性起業家の先駆者として、強く美しい独身女性で仕事に生きた人生は憧れの的となっています。

しかし、実はシャネルはファッション界への野望と同じぐらい、結婚の願望が強かったのだと言われています。

ここでは、ココ・シャネルの有名な恋人たちとの関係をみながら、破局の理由や彼女が独身を貫いた理由を考察していきましょう。

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エルティンヌ・バルサン

関連画像引用元:https://www.pinterest.de/pin/

シャネルは母が死んだあと、父親によって修道院が運営する孤児院に預けられます。ここで裁縫を習ったことが後のシャネルの仕事につながることになります。

孤児院を出て独立しなければならなかったシャネルは、仕立て屋で働きながら、キャバレーで歌も歌っていました。彼女の得意だった曲がココを見たのは誰?(Qui qu’a vu Coco ?)」であったことから、ココというニックネームが付いたのです。「ココ」という呼称はココットの省略でもあり「娼婦」という隠喩で、男性に艶めかしい想いをいだかせるもので、実際、シャネルは必要に応じてキャバレーに来た客と夜を共にしていました。

このムーランで、シャネルはフランス軍の元騎兵将校かつ繊維業者の息子であるエティエンヌ・バルサンと出会います。

そして、23歳の時、シャネルはバルサンの愛人となり生活の面倒を見てもらいます。その後3年間、バルサンと共にコンピエーニュ近郊ロワイヤリューの彼のシャトーで暮らしました。ここでの贅沢で怠惰な生活で物質的には何不自由なく暮らしていました。貧民層で育ったシャネルはここで、上流社会の作法や優雅さを学びます。しかし、精神的には、ただ愛人として飼われている扱いに不満をもっていました。

シャネルの妹ジュリアには、アンドレという一人息子がいますが、この子は実はバルサンとの間にできた子供ではないかという説もあります。

バルサンとは別れてからも、一生の友人として付き合い、シャネルがパリのブティックを開く際も資金を援助し、社交界の人々にシャネルの服を紹介しています。

ボーイ・カペル

ココシャネルアンドボーイカペル引用元:https://luxuryactivist.com/beauty/

イギリス軍大尉でありポロ選手のアーサー・エドワード・”ボーイ”・カペルとは、バルサンのシャトーでのパーティで知り合います。ボーイは女性関係が派手で有名でしたが、すぐにシャネルの恋をし、バルサンとの愛人関係がありながらも、付き合いを始めます。

その後、ボーイの援助により、バルサンのシャトーをでて、シャネルはパリで暮らします。ボーイのファッション、特に彼のブレザーは、シャネルの創造に大きな影響を与えました。ボーイは、シャネルが店舗を広げるごとに資金援助しています。二人はドーヴィルなどの豪奢なリゾートで一緒に時間を過ごしましたが、彼はシャネルに決して忠実ではありませんでした。彼らの関係は9年間続き、カペルが結婚した後でも、1919年後半に自動車事故で亡くなるまで、シャネルとの関係を続けました。

シャネルにとってボーイは一番深い愛した恋人であり、「私の父であり、兄であり、家族そのものでした」と語っています。

バルサンとボーイの関係をロマンチックに語った映画は、2009年 オドレイ・トトゥ主演の「ココ・アヴァン・シャネル」があります。

「ココ・アヴァン・シャネル」の画像検索結果引用元:http://inusuke.hatenablog.com/entry/

プリンス・ドミトリー・パブロヴィッチ

ココシャネルアンドドミトリパブロビッチ引用元:https://luxuryactivist.com/beauty/

ボーイの死の2年後、ロシアのドミトリ・パブロヴィッチ大公が恋人になります。ロシア皇族であり、ロシア革命後のボルシェビキによる殺人を免れた数少ない一人でした。彼は、グリゴリ・ラスプーチンの殺害に関与していることで知られています。彼は、ロシアの文化を教えることで、シャネルにインスピレーションを与えたと言われています。

イーゴリ・ストラヴィンスキー

「イーゴリ・ストラヴィンスキー シャネル」の画像検索結果引用元:https://luxuryactivist.com/beauty/

1920年にパリで家を探すのに困っていた作曲家ストラヴィンスキーに、シャネルは自分の家を提供したりし、『春の祭典』復活上演のために莫大な資金を提供したりしています。ストラヴィンスキーは離婚までして、すっかりシャネルに夢中になります。しかし、シャネルはこの時期複数の恋人がいて、恋愛関係にあったのは短い間に過ぎなかったようです。

ピエール・ルヴェルティ

「Pierre Reverdy coco chanel」の画像検索結果左からアルティス・デ・ザラテ/フラソワーズ・ジロ/フェノサ/ジャン・マレ/ピエール・レヴェルディ/ピカソ/ジャン・コクトー/ブラッサイ 引用元:https://www.paperblog.fr/

ピエール・レヴェルディはフランスの詩人であり、その作品は当時の刺激的な芸術運動、シュルレアリスム、ダダイズム、キュービズムに影響を与えました。彼らのロマンチックな恋愛は、1921から1926年まで続きました。レヴェルディとの付き合いのため、シャネルはピカソやグラックと恋仲であったと噂されています。

ふたりは恋愛関係が終わったあとも、まだ深い友情を維持して、それは約40年間続きました。

ウエストミンスター公爵

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1925年、イギリスで最も裕福なウェストミンスター公爵は、モンテカルロでのパーティーの後、シャネルに紹介されました。

彼はロンドンのメイフェア地区にシャネルの家を購入し、1927年にシャネルがヴィララパウザを建てたフランスのリビエラの土地も彼女に与えました。ウエストミンスター公爵はかなりシャネルに情熱的だったようです。例えば、野菜箱の大きなエメラルドの宝石を隠して贈ったり、彼女の自宅を訪れるときにはいつも抱えきれないぐらいの花束をもって、ドアチャイムを鳴らしたそうです。このシャネルとの彼のロマンチックな関係は、10年間続きました。

公爵から結婚を申し込まれるとあっさり断ったという逸話があります。シャネルが後に語ったところによれば、その理由は「公爵夫人はたくさんいるけれど、ココ・シャネルは私一人しかいないから」ということ。

しかし、これは、シャネルの作り話ではないでしようか。彼女は自分の両親や生い立ちについても、自分の正当性を守るために真実を隠し、ロマンチックに語っています。

公爵も恋多き男性で常に浮名を数名の女性と流していましたから、別れの理由は、彼の若い女性への心変わりでは無いかと思われます。

ポール・イリベ

「paul iribe chanel」の画像検索結果イリベ 左端 シャネル 右端  引用元:https://www.tatler.com/gallery/

フランスのイラストレーター、デザイナーのポール・イリベは、パリジャンのボヘミアン派の一員でした。1931年、シャネル、イリベとも38歳のときに、シャネルをモデルにしたことから付き合いが始まりました。イリベはシャネルをフランスの自由の象徴として崇め、彼のミューズ的存在でした。彼には妻子がいましたが、シャネルに夢中になったため離婚しました。しかし、イリベは、1935年9月21日、フランスのリビエラにあるシャネルの別荘で、テニスをしている間に突然倒れて亡くなりました。シャネルは彼の死を目撃し、喪失を深く感じ、長期にわたって悲しみにくれていたそうです。二人は結婚の約束をしていたようです。

ハンス・グンター・フォン・ディンクレイジ男爵

第二次世界大戦中、ドイツの占領下に置かれたフランスで、ナチスのスパイであったディンクレイジ男爵とつきあっていたことで、シャネルもスパイ容疑をかけられました。これは、シャネルが過激な反ユダヤ主義であったことも原因の一つです。

しかし、彼女は戦後しばらくの間スイスに亡命し、裁判にかけられるようなことはありませんでした。けれどもフランスに戻って、ファッションの仕事に戻ったときには、酷評を受けています。

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本当は結婚したかったの

「ココ シャネル」の画像検索結果引用元:</phttps://www.cinematoday.jp/

ココ・シャネルは87歳で亡くなるまで現役でファッション界での第一人者でした。自立し恋をしても、独身を守り抜き、仕事に生きた彼女の人生は、多くの女性の憧れとなっています。しかし、本当にシャネルは、結婚し家庭を作ることよりも、仕事を選んだのでしょうか。

彼女の星の数ほどいた恋人たちは、自分が生きていくための仕事に利益になる男性を、自ら選んできました。その恋人たちの中で、イリベを抜かせば誰も彼女と「結婚」という決断をしませんでした。シャネルの才能と情熱をみとめ類まれなる女性と崇拝しながらも、妻にはしなかったのです。

彼女の名言のなかで、「本当の男の愛というのは、結婚すること」と言ってます。この言葉には、結婚がしたくてもできなかったシャネルの哀しさがいっぱいに詰まっています。

もし、初めの恋人 バルサンが、階級の違いを気にせずに彼女と結婚、もしくは、彼女だけを一生の恋人としていたら、シャネルはボーイと恋に落ちなかったでしょう。瀟洒なシャトーにバルサンと年老いるまで住み、数人の子どもたちのも恵まれたことでしょう。そして、ファッションへの興味は薄れ、良き妻として生涯を終えた極普通の女性となっていたかもしれません。もしそうなっていれば、私達はシャネルブランドに出会うこともなかったのでしょう。

参考:

https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Iribe#Coco_Chanel:_muse_and_model https://theculturetrip.com/europe/france/paris/articles/cocos-men-the-8-relationships-that-shaped-chanel/

https://en.wikipedia.org/wiki/Coco_Chanel https://www.tatler.com/gallery/coco-chanel-biography-trivia https://luxuryactivist.com/beauty/boy-chanel-the-ultimate-love-story-by-gabrielle-chanel/

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