現代美術

松本竣介の代表作品の解説!「静」のヒューマニズムを表現した短命の画家!

松本 竣介(まつもと しゅんすけ)は、日本を代表する短命の洋画家として、広くしられています。

 太平洋戦争が始まる前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌「みづゑ」437号に「生きてゐる画家」という文章を発表しまいた。

ヒューマニズムの精神を、理知的な画風で、都会の風景やそこに生きる人びとを、描いた日本の洋画家です。

今回は、年代別に松本竣介の代表作品の紹介と解説をしていきます。

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松本竣介のプロフィール

「松本竣介」の画像検索結果

本名:松本俊介

生年月日:1912年4月19日

死没:1048年6月8日 (36歳没)

出生地:東京府渋谷

運動、動向:池袋モンパルナス

選出:二科展

1912年(明治45年)渋谷で、裕福な家の次男として生まれ、父親の仕事の都合で岩手県に移ります

小学校は一番の成績で卒業し、中学に入学しますが、脳脊髄膜炎を患います。

この病気が原因で聴力を失いました。

父親の意向で、軍人になるつもりでしたが、聴覚が不自由なので、技師になるためカメラに熱中しました。

しかし、上京していた兄が、油絵道具を、竣介に送ってきたことで、画家の道を目指します

中学を3年で中退し、東京に出て「太平洋画会研究所」に入学します。

この頃は、モディリアニとマルクス主義に没頭していました。

1930年(28歳)から、日蓮宗に改宗し、「生長の家」の信者となり、共同アトリエで絵の制作をしていきます。

1935年(31歳)の時に、二科展に入選して、世間に名が知れ渡るようになり、数々の展覧会に出品していきました。

1948年、結核のため死亡。享年36歳。墓所は松江市の真光寺にあります。

それでは、松本竣介の代表作品を年代別に紹介、解説していきます。

「赤い建物」 1936年

とんとん・にっき-mat17

紙、油彩 27x35 福島県立美術館蔵

1935年秋には二科初入選を果たして画家としての地歩を固めるとともに、生涯の伴侶となる禎子との出会いを深めて結婚した年。

新たな生活のなか、夫妻二人三脚でエッセイとデッサンの雑誌「雑記帳」を創刊し、活動の場をさらに拡げていったのです。

ジョルジュ・ルオーを思わせる太く黒い輪郭線が突然現れ、色面を囲んでいます。

後の竣介作品と共通する、くすんだ色遣いによる薄暗い画面づくりは、このあたりから培われてきとように思えます。

「街」 1938年

「松本竣介 街」の画像検索結果

紙、油絵  131x163 大川美術館蔵

30年代後半の作品から、線に変化が現れる。太い輪郭線は消え、その代わりに細い線描による絵が生まれてきます。

色面だけで大ざっぱに構成した画面の上に、線描で人物や建物、植物などを遠近感を無視して大胆に載せており、画面にダイナミズムを感じさせます。

この大きな作品は、ほとばしる青色の中に、松本竣介の秘められた心性を表現しているといえるでしょう。

「黒い花」 1940年

とんとん・にっき-moto6

油彩、板  86x60  岩手県立美術館蔵

松本竣介の描いた風景には女性像がよく登場します。
ここでもスカートにハイヒール、帽子をかぶりお洒落にきめたモダンガールが大きく描かれ、彼女の脇にはサインからひょろりと伸びた背の高い黒い花が風に揺られているようです。
人物や建物が複雑に交錯した黒い線描と、白や赤や青が何層にも重ねられた透明感のある複雑なマチエールが、幻想的な都会のイメージを作り上げています。
 
麦の香りをさせる健康的な田園の少女も、化粧品でかため上げた都会の女も、同じ女だ。瞳を化粧する事は出来ない。」
 
 岩手で育ち、東京で生活した竣介は、田園の風景も都会の風景も同じによう愛しました。
 
彼にとって、自然とは探すものでなく、いつでも心の中にもっているものであったからだったのです。
 
都会のなかにある自然を黒い花で表現した心情は、幾重にもうつろう松本竣介の繊細さが感じられる。
また、この頃から後期の「赤の人物像」が作り上げられていく予感も感じられる。

「立てる像」  1942年

「松本竣介 立てる像」の画像検索結果

油彩、カンバス   162x130 神奈川美術館像

第29回二科展出品作品。

静まり返った街に両足を踏ん張って立つ青年像が描かれています。

背景に描かれた風景は、高田馬場辺りの一隅と推定。

仁王立ちをしながらも、どこか不安げな表情をしたその青年は、暗い時代に抵抗しつつ画家としての生き方を見つめ直そうとしている等身大の自画像とも、受け取られています。

「Y市の橋」 1943年

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油彩、カンバス  38x46  岩手県立美術館蔵

同じ題名の油彩画は、現在4点確認されています。この絵は、第二回「新人画展」に「運河の風景」という別タイトルでも出品しています。

透明感のある硬質な絵肌で、線は描かれているのではなく、彫刻を削るようにえががれています。

この絵は、松本竣介の自己と風景との対話であり、都市が戦争によって破壊され、荒廃していく予感のなかで、自分の目と手と心によって、意識の底に結ぶ画像だと言われています。

線というのは、観念を輪郭づけるものであると同時に、都市の変貌のなりゆきをとらえる認識の光線であると考えていたのです。

「建物」 1948年

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油彩、板  61x73  東京国立近代美術館蔵

1948年6月8日、結核で急死した松本竣介の絶筆です。

彼の作品には、この絵のように、「透明な壁」となって目の前に立ちふさがるものが多く、それはとりあえず、閉塞した時代状況の反映とみられます。

この頃は、松本竣介はパリへの移住を決意していて、どこかノールトルダム寺院を思わせる建物であり、また元々の信仰、キリスト教へ思いを馳せる気配もみられるようです。

しかし、視線は、もうどこにも逃げ場はなく、暗黒の入口に誘われるばかりで、死の予感がします。

石造りの堅牢な建物は、いわば死の国への入ロであり、また墓標でもあるのではないでしょうか?

中学時代から友人だった彫刻家、舟越保武は、「これほどに、画家の生命の終結を思わせる絵は他にない。この絵には、私にとって特別な何かがある。現世への竣介の別れの言葉であると同時に、私に対する励ましと指標のような、竣介が私に示す最後の姿勢が偲ばれることである」と語っています。

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まとめ

自画像 1941年

 

松本竣介は『たとえば空襲でやられて断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたい』と語っていた。

作品を後世に遺すため、制作時には常に耐久性を念頭に置き技法を吟味していたとそうです。

聴覚を失ったという障害が、西欧生まれの油彩画を自らのものとする努力の糧となり、また東洋の古典絵画を参照しながら、絵画の永遠性に挑んだ不世出の短命の芸術家でした。

松本竣介の作品は、常に妻、子供そして、心ある画友に支えられ、戦時下の暗い青春のなかでも人間を大切にしようとする近代に生きた竣介の強い思想から生まれたもです。

松本竣介の家族や友人については、次の機会にお話したいと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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