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ミヒャエル・エンデの妻・子供・父母、家族について。名言からの考察。

引用:http://www.culturaitalia.it/opencms/en/contenuti/eventi/event_1640.html?language=en

ドイツの児童文学作家 ミヒャエル・エンデ(Michael Andreas Helmuth Ende, 1929年11月12日 – 1995年8月28日)。

代表作に「モモ」「はてしない物語」があり、時代を超えて世界中の人達から愛されています。

また日本との縁も深く、長野県の「黒姫童話館」にはエンデに関わる資料が2,000点も収蔵されています。

ここでは、ミヒャエル エンデの家族、父母、兄弟姉妹、結婚した妻たちや子供を見ていきましょう。

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ミヒャエル・エンデの両親

1921年11月12日、ミヒャエル・エンデは、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで生まれました。

父はシュルレアリズムの画家 エドガー・エンデ、母は理学療法士のルイーゼです。

エドガー・エンデ (1901年2月23日-1965年12月27日)

1930年代に、エドガー・エンデのシュルレアリスム絵画は、批判的であれ注目を集め始めましたが、その後、ナチス政府によって退廃芸術とされ、活動を続けていくのが困難になります。戦時中はドイツ空軍に徴兵されていました。

彼の絵画の大部分は1944年のミュンヘンへの爆弾襲撃によって破壊され、戦前の作品は非常に稀です。戦後、シュルレアリスムの創設者であるアンドレ・ブルトンにより、彼の作品は公式なシュルレアリスムとなりました。

「暗闇の画家」とも呼ばれたエドガー・エンデは、長い間家に篭り、夢の断片をつなぎ合わせた幻想的な作品が多数あります。

エンデが6歳のときに、ミュンヘンの芸術地区に移りましたが、戦争が始まり父親の芸術は「退廃芸術」とされ、芸術には表立って触れることはできませんでした。

戦後、エンデは劇作家になりたいと決心しましたが、経済的な理由から大学の学位を取得できなかったため、1948年にオットーファルケンバーグ舞台芸術学校のオーディションを受けました。ミュンヘンで2年間の奨学金を授与され、演劇学校を卒業すると、俳優として活動していました。

俳優としての職業は才能もなく、自分でも不満であったので(のちに作家として必要な体験であったと語っていますが)、舞台作家の依頼を受け作家のキャリアを積んでいきます。

この頃、父親がエンデとほぼ同年齢の愛人(エドガー・エンデの弟子)と同棲し、母親と別居したことに大きな衝撃を受けました。

1961年『ジム・ボタンの機関車大旅行』がドイツ児童文学賞をとり、作家としての生活が安定していきます。その後はご存知のように『モモ』や『はてしない物語』で世界的に有名な作家となりました。

ミヒャエル・エンデの最初の妻

インゲボルク・ホフマン

Ingeborg Hoffmann Net Worth 2018: Wiki-Bio, Married, Dating, Family,  Height, Age, Ethnicity引用元:https://networthpost.org/net-worth/ingeborg-hoffmann-net-worth/

1921年7月1日ミュンヘン生まれ、1985年3月27日ローマで亡くなったドイツの女優。

第二次世界大戦中、インゲボルクは、陸軍の医師と結婚しまし、息子のマイケルを出産しました。しかし、その後離婚し、ミュンヘンで主に吹き替え声優として働いていました。

彼女がエンデに出会ったのは1952年、大晦日の友人のパーティでした。二人はお互いの芸術性に惹かれ、その時から33年間人生を共にします。

8歳年上のインゲボルクは時には火山のように、また蝋燭の火のように情熱的であり、自分にも相手にも誠実さを求め、常に弱者のために戦っていたそうです。ですから二人の生活は、ほんわりとした甘いものではなかったのですが、エンデの芸術と人生は彼女から大きな影響を受けました。また、インゲボルクのキャバレーグループ関係者の紹介により、エンデの文学が世に知れ渡るようにもなったのです。

1960年に結婚してからイタリアで暮らしていましたが、1985年に映画「ネバーエンディングストーリー」を見たわずか数日後に、インゲボルクは肺塞栓症で突然亡くなっています。

2番めの妻 佐藤真理子

エンデと真理子は1976年に、ボローニャ国際児童図書見本市での会合で出会いました。真理子は1974年にドイツに移住し、ミュンヘンの国際青少年図書館で働いていました。

エンデは以前から日本文化、茶道や禅に興味を持ち、ラフカディオ・ハーンを愛読していたといいます。1977年から1980年にかけて、エンデと真理子が協力して、宮沢賢治の童話のドイツ語訳を作成しました。この本は出版テされませんでしたが、この仕事で親密になり仕事と人生のパートナーとして関わっていきます。

エンデは1977年から何度も日本を訪れ、日本文化の興味と知識を深めていきます。二人は1989年9月に結婚し、真理子が和訳に関わった「モモ」や「はてしない物語」は、日本で1993年までに200万部以上販売されました。

二人1995年8月にエンデが胃がんで亡くなるまで、ドイツで一緒に暮らしました。

エンデには前妻インゲボルクとも真理子との間にも子供がいません。

ミヒャエル・エンデ 黒姫童話館

黒姫童話館 - Wikipedia

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%A7%AB%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E9%A4%A8

エンデの2000点を超える作品資料を収蔵し、世界で唯一常設展示している施設です。エンデ本人による希望のもので、館内にはエンデの作品の原稿や挿絵・下書きなどがあります。

また、屋外にはいわさきちひろがアトリエとして使用していた黒姫山荘が展示され、童話愛好家が一度は訪れる場所です。

〒389-1303 長野県上水内郡信濃町野尻3807−30

http://douwakan.com/dowakan

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ミヒャエル・エンデの名言からの所感

“There are many kinds of joy, but they all lead to one: the joy to be loved.”

“Every real story is a never ending story.”

“But that is another story and shall be told another time.”

この3つの名言がエンデの生きる姿勢を表しているような気がします。

彼は時間の大切さを物語でも語っていて、私達に与えられた時間を無駄にせず、一瞬一瞬に集中して生きることのように聞こえます。もちろん確かにそうなのですが、だからといって、短い人生を焦ってギュウギュウにいろいろなことを押し込んで暮せばいいということでもないのです。

私達は与えられた時間を大切に生き、いつ終わるかもしれない命への不安を取り除き、まるで永遠を生きるように過ごしていけば、豊かな人生が送れるのではないでしょうか。

私達は終わりのない自分の作り上げていくストーリーの中にいて、今と違う生き方もできる時間はたっぷりあるのだと信じる力が必要だとエンデは語っているに違いありません。

自分と共に生きる人や、サポートしてくれる人たちに感謝し、失敗を恐れず何度もトライし続ける。そして、迫りくる時間に押しつぶされずゆったりと構え、未来の希望も持ち続ける懸命であるという、落ち着きのある人生をエンデはすべての人に語っているのでしょう。

参考:

https://www.goodreads.com/author/show/ https://michaelende.de/en/author/biography/mariko-sato-and-japan-0

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