明治の仏教哲学者、教育者の井上円了(いのうえ えんりょう)
現在の東洋大学の哲学館を設立し、仏教と東洋哲学の啓蒙に努めました。また迷信を打破する立場から妖怪を研究し、『妖怪学講義』を著して、「妖怪博士」と通称され、「妖怪学」の祖でもあります。
ここでは、井上円了の妖怪学や家族について見ていきます。両親、兄弟姉妹、結婚した妻や子供、子孫はどんな人たちなのでしょうか?
井上円了のプロフィール 学歴・経歴
引用元:https://www.toyo.ac.jp/125thanniv/founder/
生年:1858年3月18日(安政5年2月4日)
没年:1919年(大正8年)6月6日 享年 61歳
出身地:越後長岡藩領の三島郡来迎寺村(現・新潟県長岡市来迎寺)
学歴:東京大学文学部哲学科
1885年(明治18年)に大学を卒業した後、文部省への出仕を断り、著述活動を通じて国家主義の立場からの仏教改革を唱え、迷信打破の活動を行っていました。
29歳という若さで哲学の普及を目指し「私立哲学館」を創設。
また、生涯に三度の海外旅行を、たった一人でしています。その範囲は全世界に及び、この視察で得られた見聞は、全国巡回講演により、哲学とともに一般民衆にも伝えられました。公演回数は5千回以上で、画期的な規模で行われています。これは、西洋のように学校教育が終了した後も、自由に学問を学ぶ生涯教育が重要であるとの考え方からです。
こうして各地の民衆のありのままを見、独創的な研究である『妖怪学講義』を誕生させました。
1918年(大正7年)遊説先の満州・大連で、脳溢血のため61歳で急死。
井上円了の妖怪学
哲学者として知られる井上円了は、「不思議」研究の第一人者でもあります。明治時代、日本で流行していた「こっくりさん」の謎を科学的に解明したのも円了でした。
科学が未発達であった明治時代の人々は、幽霊や人魂など、生活の中で経験する様々な不思議な現象を「妖怪」や「迷信」によるものと考えていました。円了は、合理的・実証的な精神に基づいて迷信の打破、妖怪の撲滅を図り、東京大学卒業後の明治19年(1886)大学内に「不思議研究会」を立ち上げます。雑誌広告を使って幽霊から諸精神病まで、広範囲な妖怪に関する情報を集め、古今東西の書物から妖怪に関する記事を抜き出す一方、全国各地を歩いて資料を集めました。
こうして、約10年間の調査研究の結果をまとめたものが『妖怪学講義』です。迷信の多かった当時の日本において妖怪研究は高く評価され、『妖怪学講義』は宮内大臣を通して明治天皇に奉呈されました。「お化け博士」、「妖怪博士」とも呼ばれた円了の徹底ぶりは、妖怪漫画家・水木しげるの著作『神秘家列伝』に紹介されるほどです。
哲学の伝道者として、円了は日本全国を巡る講演活動も行っていましたが、ここでも「妖怪・迷信」については人気があったようです。彼の後の体系的な妖怪研究は、江馬務、柳田國男に大きな影響を与えました。
出典:https://www.toyo.ac.jp/125thanniv/founder/
井上円了の両親 父親・母親
1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡来迎寺村(現・新潟県長岡市来迎寺)にある慈光寺に円了は長男として生まれます。幼名、岸丸。父親 円悟は慈光寺の住職、母親 イクは栄行寺の長女で、寺族の家庭で育ちます。
慈光寺は200年以上の歴史を持ち、地域の教育も担っていました。祖父、父とも学校や私塾で教鞭をとっていたので、円了が教育者の道にすすんだのは当然だったのかもしれません。
長男の円了は慈光寺の住職を世襲するのが自然でしたので、教団の願いをになって、最先端の学問を学ぶべく東京大学へ進学。日本仏教の再建と近代化を目指してはいたものの、寺を次ぐことに関しては苦悩が多かったようです。
母親は円了に忍耐と継続する力を教えたようです。大雪の中、鼻緒の切れた下駄をもって円了が学校にきたので、先生がどうしたのか、と問いただします。これは、母親が「学校に行く途中で鼻緒が切れたのなら、我慢して学校まで行くように」と言っていたからです。学校に行くと決めたのなら、雨でも雪でも鼻緒が切れても、とにかく行く、という忍耐と継続力の大事さを円了は、子供の頃から学んでいました。母が亡くなったときは、巡業講演をキャンセルしてしばらく哲学堂にこもっていたそうですから、母への強い思いが伺われます。
母 イク 引用元:https://www.toyo.ac.jp/-/media/Images/Toyo/about/founder/
井上円了の兄弟姉妹
円了は7人兄弟の長男です。
妹 リイ (長女) 1860−1937
新潟県の来迎寺村の村長と結婚。
弟 円成 (次男)1862−1915
円了の創立した「哲学書院」の経営者。円了の代わりに家督を相続し、慈光寺の住職となりました。
妹 ヨシ (次女) 1868−?
新潟県の道半村の地主の息子と結婚。この二人の息子 義郎は、勝海舟と交流があり、のちに農業技術者となり、チューリップの栽培を普及させました。
末妹 セツ (三女) 1860−?
新潟県の千谷沢村の大地主の息子と結婚しました。
末弟 良慶 (四男) 1867−?
東京美術学校で学び、円了の創立した「京北中学校」の図画の教師となりました。
井上円了の妻
妻 敬
円了は1887年 29歳で吉田敬と結婚。
円了より4歳年下の敬(1862−1951)は、加賀藩前田家の御典医の家系に生まれました。東京女子師範学校を卒業し、東洋英和女子学校の教師をしていました。夫婦とも、当時の最高の教育機関で学んだのでした。
円了は、巡回講演や海外視察などで家を留守にすることが多かったので、敬が家庭を任されていました。家事や育児の他に、哲学館の経理の仕事もしています。そんな敬を子どもたちは「本ばかり読んでいて、物欲がなく、上流階級の人たちにへつらうことをしなかった」と語っています。
井上円了の子供
長男 玄一 1887−1972
東京帝国大学法学部を卒業し、三井銀行に勤務。財団法人三井報恩会の役員を務めました。東洋大学の運営に井上家が関わることを円了は禁じていたので、哲学堂の理事として貢献し、のちに東京都に寄贈しました。
哲学堂公園 引用元:https://naka2.tokyo/tetsugakudo-meisho
長女 滋野 1890−1954
女子高等師範学校を卒業。九州大学教授と結婚。
次女 澄江 1899−1975
女子高等師範学校を卒業。外務事務官と結婚。
円了は多忙な合間をぬって、家族と外食に出かけていたそうです。孫やひ孫はいるはずですので情報が取れ次第追記します。
参考:file:///Users/beav/Downloads/enryocenternenpo15_113-140_OCR.pdf