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保阪嘉内<宮沢賢治の親友>の経歴、子孫、記念碑。『銀河鉄道の夜』に込められた想い。

宮沢賢治の親友として知られる詩人、保阪嘉内(ほさか かない)。

『銀河鉄道の夜』のカンパネルラや『風の又三郎』のモデルとも言われています。

保阪嘉内は宮沢賢治を知る上での重要な関係者で、保阪宛の賢治からの手紙から、宮沢賢治が考察されていますが、嘉内自身はどのような人物だったのでしょうか?

保阪嘉内の経歴、活動、記念碑や家族、子孫を見ていきましょう。

また『銀河鉄道の夜』で賢治はどんな想いで嘉内を描いていたのでしょうか?

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保阪嘉内の経歴と活動

「保阪嘉内」の画像検索結果<引用元:www.ihatov.cc/>

生年:1896年10月18日

没年:1937年2月8日 (享年40歳)

学歴:盛岡江東農林学校農学科第二部 退学

出身地:山梨県韮崎市

1910年 14歳のとき、現 山梨県立甲府第一高等学校に進み、文芸同人誌に作品を投稿していました。

北海道大学を不合格になり、盛岡高等農林学校に入学し、ここで宮沢賢治と出会います。寮では同室で、お互い敬愛するのが石川啄木ということですぐに意気投合しました。

宮沢賢治、小菅健吉、河本義行とともに文芸同人誌『アザリア』を刊行し中心人物として活動します。メンバーは全員で12人、わずか1年の活動でしたが、ここで仲間たち(特に賢治と)お互いの思想や文学論を討論し友情を深めていきます。

<引用元:https://azalea-4.blog.so-net.ne.jp>

しかし寄稿文「社会と自分」の中に「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節があり危険思想とされ退学となります。

その後明治大学入学を志しますが、家庭の事情もあり断念して、山梨の戻り農業活動に入りました。退学してからも賢治との交流は続き多くの手紙のやり取りをしています。1919年11月から1年間は志願兵として近衛輜重兵(しちょうへい)大隊に応召し、除隊後は、勤務演習に数度参加して1923年に士官(少尉)に任じられたそうです。

「保阪嘉内」の画像検索結果<引用元:https://azalia-4.blog.so-net.ne.jp>

1924年から1925年まで山梨日日新聞に文芸記者として勤務し、1928年には歌集出版を企図したが出版社の火災で断念しました。

1937年2月8日に胃がんにより死去。

賢治と頻繁な交流(主に手紙)は1921年7月までで、その後はめっきり少なくなります。原因は二人の宗教上の思想が噛み合わなかったからではないかとされています。

しかし、嘉内は賢治から受け取った手紙を多く保管していたため、この手紙などが文学研究者の小沢俊郎と嘉内の息子の共著『宮澤賢治 友への手紙』として刊行されています。

「宮沢賢治 友への手紙」の画像検索結果<引用元:komodo-book.com>

また、1992年にアマチュア天文者の渡辺和郎と円舘金によって発見された小惑星14447は、「hosakakanai」と命名されていますが、これは嘉内が中学時代に描いたハレー彗星のスケッチが、天文学上の貴重な資料と認められたことに由来しているそうです。

<引用元:https://azalia-4.blog.so-net.ne.jp>

これは、嘉内が甲府中学校の寄宿舎にいたときに描かれたもので、後に賢治にその時の様子を詳しく話し、それが『銀河鉄道の夜』の着想に結びついたと考えられています。

保阪嘉内の家族、子孫

保阪嘉内の父親、善作は山梨県北巨摩郡の役所書記官でした。

6人の兄弟姉妹で、嘉内は長男です。次男、次郎は嘉内の16歳年下にであり、嘉内と次郎の間には4人の妹がいました。父親は次男の次郎に非常に期待しておりましたが、ニューギニア島で戦死して家督は嘉内が継ぎました。

子供は数名いたようで、次男で医師の康夫さんは、『宮沢賢治 友への手紙』の著者でもあり、宮沢賢治、保阪嘉内の式典や講演にも出席していました。

現在では講演や記念式典、韮崎市の催しには、お孫さんが出席しているようです。

花園農村の碑

「保阪嘉内 記念碑」の画像検索結果<引用元:ameblo.jp>

宮澤賢治と、その生涯で最大の親友であった保阪嘉内は、同じ1896年の生まれです。二人の生誕110年を記念して、保阪嘉内の故郷である山梨県韮崎市では、「宮沢賢治 保阪嘉内生誕百十周年記念事業実行委員会」が組織され、2006年から講演会や記念展示会が開催されました。そしてその集大成として、2007年10月に、保阪嘉内の生家近くに建立されたのが、この石碑です。
<出典:www.ihatov.cc/>

場所:山梨県韮崎市藤井町坂井205

「銀河鉄道」をかたどってレールの上に石碑が乗っており宮沢賢治と保阪嘉内の作品の一つが彫られています。

春は麦打ちせんと畑に立っ
て遠山のかすみに消えゆく
夢みる喜び
夏田植えして帰る田の水の上
に浮む白玉
秋は柿の梢に柿赤き頃 豊
な稲はすゞ風にさらさらと
波打って
冬は縄なひ 草鞋作り 夕
べは家庭のもっとも歓しき
うたげにあわやかに降りつ
む雪を見る
われわれをして 田園都市
を作らしめよ 模範農村を
作らしめよ そしてわが幸
ある天地の神に感謝をさゝ
げしめよ      保阪嘉内

保阪嘉内は歌曲も作っており、自ら作曲した曲もあるだけに、この作品も力強さの中にも軽やかさがあり、自然への感謝の意が深く感じられます。

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『銀河鉄道の夜』からみる賢治と嘉内の関係

禁欲主義者で一生独身だった宮沢賢治は保阪嘉内に友情以上のものを感じていたのではないかという説があります。

しかし、賢治は結婚こそしなかっただけで、遊郭に行ったり、春画コレクターだったりしたので同性愛の傾向はなかったと思われます。

カムパネルラのモデルは複数あがっていますが、もし保阪嘉内だとしたら、賢治は嘉内に絶大なる友情を抱いていたことと推測されます。

しかし、カンパネルラのほうはジョバンニがザネリなどの同級生にいじめられても、常にジョバンニのことをかばうわけでもなく、哀れな眼差しを向けるだけのこともあったことから、嘉内のほうは賢治のことを完全なる友と感じていない、という賢治の不安を表しているような気もします。

そしてストーリーではカムパネルラは死んでしまい、ジョバンニはこれからも懸命に生きていくことを決断することから、賢治と嘉内の友情が薄れていくことを示唆し、それぞれの道を歩んでいく様子が伺われます。

『銀河鉄道の夜』が執筆されたのは、嘉内との交流が少なくなったあとのことですから、このストーリーの結末から二人の友情関係を見てみると、生涯のかけがえのない友、というよりも、志を同じにして入るもののの、思想や方向性が違った一時期熱い友情を交わした関係ではないかとも推測されます。

清貧を美徳として生きた賢治にとって、保阪嘉内の生き方は、尊敬はできるものの少し妬ましく、ずっと寄り添って尊重するといことはできなかったのではないかと感じています。

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