ろう者の写真家 齋藤陽道(さいとう はるみち)は、Mr.Childrenやクラムボンなどの有名アーティストの撮影を手がけていることで知られています。
本記事では、齋藤陽道の写真展、プロフィール、学歴、経歴を見ていきましょう。
また家族との生活や、作品で表現する彼独特の光と、感じる声とはどんなものでしょうか?
齋藤陽道のプロフィール、経歴
氏名:齋藤陽道(さいとう はるみち)
生年月日:1983年9月3日
出身地:東京都
学歴:東京都立石神井ろう学校 卒
齋藤氏は16歳になるまで補聴器をつけて、学校に通ったが、自分の耳に入ってくる言葉が雑音のようにしか聞こえず、同級生や華族と話す時には、恐る恐る唇の形を真似して、声を出していたといいます。
ろう学校に入ってからは手話を覚え、相手とつながる「ことば」を知り、自分の居場所を感じられたそうです。手話での表現は単なる文化の違いにすぎず、優劣はないことを理解しながらも、ろう者としての悩みは消えることはありませんでした。
しかし、20歳の時補聴器を外して、ろう者として生きることを決めます。
ろう学校卒業後、コミュニケーション不足を補うためにも使っていた写真を学ぶため、大阪の専門学校に入りますが、中退し、独学で自分を表現できる方法を模索していました。
2011年に写真集『感動』を出版。この本を出してなかったら、写真家は辞めてしまっていただろうと語っています。他にも写真集や書籍は『宝島』『写訳 春と修羅』『それでも それでも それでも』『声めぐり』などがあります。
【受賞歴】
◊2009年 「タイヤ」 写真新世紀 佳作賞 飯沢耕太郎選
◊2010年 「同類」 写真新世紀 優秀賞・佐内正史選 東京写真美術館『写真新世紀』展示
◊2014年 日本写真協会 新人賞
齋藤陽道の作品
齋藤陽道 写真展
齋藤陽道「絶対」
会期:2020年11月18日~2020年11月30日
会場:三越コンテンポラリーギャラリー
住所:東京都中央区日本橋室町1-4-1 日本橋三越本店 6階
電話番号:03-3241-3311
気になっていた齋藤陽道さんの写真展「絶対」に行ってきました。
観ているうちに一枚一枚の写真が写真であることを忘れ、被写体として写るいのちそのものの存在感が空間を満たしているような感覚を覚えました。
そして一つ一つのいのちの存在を印画紙に焼き付ける、まなざしの熱量に圧倒されました。 pic.twitter.com/GwQHlcqtsm— さーしゃ・ましろふ (@saasha1300) November 21, 2020
齋藤陽道の家族
両親は聴者。
2011年、28歳の時、同じろう学校出身の麻奈美さん(写真家)、と結婚。
2015年に長男、一樹(いつき)君誕生。
2018年には二人目のお子さんが生まれています。
ほとけの手つきだな、と思う。ほとけをわらかそうとする、これまたほとけ。毎日たいへんにたのしいな。 pic.twitter.com/SLFsihA4lD
— 齋藤陽道 (@saitoharumichi) 2018年12月1日
お子さんは聴者で、生後半年ぐらいから手話を覚え、指文字や手話で意思疎通をはかっているとのこと。音のトレーニングは齋藤氏の妹や両親としているそうです。
齋藤氏は、音声言語だけが「ことば」ではないといいます。文法上の規則があり、相手に自分の意志を伝えるのが「言葉」であるのであれば、「ことば」は振る舞いや眼差しまでも含める声であるようです。「ことば」には多様な表現があり、音声のみの「言葉」には縛られたくはないのです。
「祖父」 pic.twitter.com/MhfOtqfBtN
— 齋藤陽道 (@saitoharumichi) November 21, 2020
齋藤陽道の映画
「うたのはじまり」
「だいじょーぶって、心からこぼれおちた」 ある日、息子への子守歌が生まれた。 嫌いだった「うた」と出会うまでの記録。人々との会話やコミュニケーションを通じ、齋藤氏が「うた」とは何かを問う。
公開:2020年2月22日よりシアター・イメージ・フォーラムほか順次公開
異なることで見える光と声
齋藤陽道氏の作品は、「社会的マイノリティ」と言われる障害のある人たちを題材にすることが多いのですが、それらの作品は、みな穏やかな光に包まれ、優しさを感じます。
従来、障害のある人達の写真は、彼らの苦渋を表す、我々の心を抉るような作品が目を引くものですが、齋藤氏の創り出す写真は、その怒りや苦しみを超えた「喜び」「幸せ」の可能性が見えてきます。
他者との身体的な「異なり」は、大きないらだちによって苦悩を生み出しますが、果たしてその「異なり」を背負い生きることは、マイナスでしかないのでしょうか。
障害のあることで、今まで感じられなかった自分の、もしくは他者の声を音声以外で表現することにより、他者とは「違う」という個々の確信が生まれて、他者との会話を理解していく「異なる」ことへの受容を齋藤氏の作品は指し示しているのではないかと思えます。
感動ポルノ的な生々しい感情を与えるわけではなく、それぞれの人間が異なり、違いを見出すことが、我々の思考を響かせ多くの可能性の扉をひらかせるきっかけになる、斎藤氏の作品は、そんなことを語っているのではないでしょうか。