彫刻

ジャコメッティの妻アネット・アームについて。モデルになった作品|芸術家の恋人たち

アルベルト・ジャコメッティ。哲学的、実存的、現象学的に彫刻を問い詰め、不要なものをすべて削ぎ落としたような彫刻は皆の知るところである。

私生活では、当時の芸術家と違って結婚は一度きりであるのには驚きである。

彼の唯一の妻、アネット・アームはジャコメッティの最愛の女性だったのだろうか。

それともピカソの最初の妻オルガのように、別れたくとも別れられない理由があったのだろうか。

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ジャコメッティの妻 アネット・アーム

蚊居肢: ジャコメッティと女たち

引用元

アネット・アームは1923年10月28日、スイス、ジュネーブ市のレマン湖の北側にあるプレニーで生まれた。

大学で秘書コースを習得した後、第二次大戦中は赤十字に勤務した。

1942年からジャコメッティはスイスに避難しており、アネットと出会う。1946年にパリで二人は暮らし始め、1949年に結婚。

ジャコメッティ45歳。アネット26歳であった。ジャッコメッティはこの若く美しい女優のような妻をミューズとして多くの作品を創り上げていく。

二人は結婚しても当時のパリの芸術家と同じように、自由恋愛の関係だった。アネットのよく知られている恋人の一人に哲学者の矢内原伊作がいる。

ジャコメッティと矢内原は親しい友人でありお互いの思想を尊敬し合っていた。今では自分の仲間が妻もしくは夫と恋愛をしているのは、非常にショックなことであり、社会的批判も耐えないだろう。しかし戦中戦後は「自由」という名のもとに、すべての行動が自由であることが理想だったに違いない。「貞操」は肉体ではなく精神だったのであろう。ジャコメッティはアネットの恋人に対して嫉妬はしなかったという。

結婚後は別居生活が多かったのだが、アネットはジャコメッティの行く先々について回って彼をサポートした。晩年はジャコメッティが病床にいながらニューヨークに移ったときも、彼の最後の存命中の展覧会のために、アネットもニューヨークへ行き、ジャコメッティに代わり展示の指揮をした。

1966年、ジャコメッティは心臓病の為亡くなる。二人の間には子供がいなかったのでアネットが彼の作品の保護と著作権の権利を与えられる。

贋作が出回っていたジャコメッティの作品を守るために、彼の作品の図録を作成し、パリ14区のアトリエを壊し、アルベルト・アネット・ジャコメッティ財団を立ち上げる。

アネットの活動はあまり公にされてはいないが、彼女が亡くなる1993年まで、ジャコメッティの作品を守るために全力を尽くしたのであった。

Annette from Life

Fondation Giacometti - Annette from Life

1954 引用元

ジャコメッティは戦後パリに移ってから、今までのミニチュアのような作品よりも、大きなものを制作できるようになった。この彫刻は高さが50cm以上ある。

ジャコメッティはアネットをモデルにして多数の絵画や彫刻を制作し、このブロンズ像は前年のアネットの裸婦図を想起させる。

Annette

Fondation Giacometti - Annette

1961  引用元

この絵は、1961年に制作された3つの胸像シリーズの一部である。

アネットは40歳近かったとはいえ、一見では呪術師の老女のように描かれ、グレーの顔やそれを囲む濁った色彩はゾンビのようだ。

しかし、近くによってよく見れば若く美しい女性、いつものアネットであり気品も加わっているようだ。

この正面像はジャコメッティが敬愛していたコプト教の葬儀の時に使われる肖像画をイメージしたとも言われている。

Annette VI

Alberto Giacometti | Buste d'Annette VI | MutualArt

1962−1963  引用元

10体あるアネットシーズの作品。

ジャコメッティはモデルに厳しく、長い間同じ姿勢を崩させなかったので、モデルたちは心身共に疲弊したそうだ。奔放であると言われたアネットも、ジャコメッティのモデルをするときだけは従順で貞淑な妻のように振舞ったそうだ。

このブロンズの眼の奥には、こういったモデルの苦しみがあり、それを耐え抜いている力、ひいては人間の根源的な生き抜くという生命力の炎が秘められているという批評もある。

アネットの生きる底力を感じさせないとは思わないが、もし目の奥に炎を見えるのなら、それは生命力だけではなく、嫉妬の炎もいり交じって、ジャコメッティを凝視していただろう。

この頃からジャコメッティはパッチリ眼の若い娼婦カロリーヌをモデル兼恋人にしていた。

彼女との関係はここから約10年続く。妻の多くの恋人を許容していたジャコメッティ自身も、恋人は沢山いたのだ。まあ、当時の自由恋愛の流行に乗らなければ後ろめたい気分になったかもしれない。

アネットのジェラシーが潜んでいると憶測すれば、こちらの胸像もまた少し不気味に見えてくる。

Giacometti and Caroline – Arty Farty

パリのバーで ジャコメッティとカロリーヌ

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ジャコメッティと妻アネット

サルトルとカフェで語りベケットと深夜の散歩をし、ピカソをアトリエで罵ったジャコメッティはアネットに無償の愛をささげたのだろうか。

一見美女と野獣のようなこの夫婦はジャコメッティの熱愛から成り立っていたようにも感じられるが、アネットもまた強くジャコメッティとの結婚を望んでいた。

知り合ったジュネーブで一緒にホテルで暮らしている間中、アネットは辛抱強くジャコメッティからのプロポーズを待っていたのだ。

彼らは結婚はしたが、ジャコメッティは生涯女性に対して「近づくほど遠ざかる」という信念を持っていた。最終的に自分の求めるものを愛する女性は与えてくれないと思い込んでのだろう。

しかし、芸術家でもなくジャコメッティの作品のマネジメントもしていなかったアネットは、時の激しい風潮に染まりジャコメッティの求める女性になるしかなかった。そこには一般的な夫婦の愛や結婚生活とは無縁であり、アネットが望んだ生き方ではなかったのではないだろうか。

ジャコメッティという偉大な芸術家の伴侶としての特別の役割を全うし続けたアネット。

彼女もまた愛する芸術家のためにすっかり人生を塗り替えたミューズの一人である。

参考1:Giacometti, A Biography in Picture

参考2

参考3

参考4

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