画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督など、芸術分野の全てを網羅したように活躍した芸術家・池田満寿夫( いけだ ますお、1934年2月23日 – 1997年3月8日)。
池田満寿夫の作品は官能的な作風が多いので知られていますが、彼の愛した妻たちにも情熱的に接していたのでしょうか。ここでは、池田満寿夫の妻、恋人、愛人を見ながら、作品との関係性を見ていきましょう。
池田満寿夫の最初の妻
池田満寿夫は21歳のときに、10歳年上の大島麗子と結婚。彼女は満寿夫が下宿していた家の娘です。
この頃、東京芸術大学の受験に3度失敗し大学進学を断念。このうち、酒場で似顔絵を描いて生活費を稼ぐ生活を送っていました。幸運にも19歳で、自由美術家協会展に入選。画家で写真家の瑛九(えいきゅう)と知り合い、色彩銅版画の作製を始めたのもこの頃です。
始めは、恋愛の対象ではなかった麗子ですが、麗子の母親が死んだ通夜で、亡き骸が眠る隣の部屋で欲情が湧いたとか。
「あなたの子宮が見たい」と願う池田に、「結婚してくれるなら、見せてもいいわ」と微笑む麗子。現代の私たちには計り知れないこの時代の芸術家の恋のかけひきともいうのでしょうか。
後に池田は「子宮とは人体の中で、唯一、指で触れることのできる臓器。だから、覗き見ることだってできるはずなのである。」とエッセイで語っています。
そして、二人は肉体関係を持ち、結婚。しかし、池田は大学へもいかず、仕事にも就かないのです。そんなダメンズに麗子は親が残した財産で、生計をたて、池田のためにアトリエまで新築しています。
麗子は職業を持たず、家にすっといる家虫のような女性で、池田は常に一緒にいる麗子との生活に息が詰まってきます。若い男性の精神的未熟な結婚の見本のような破局です。約3年半で麗子との暮らしは終わります。
池田は「愛されるより、愛されたい」「自分の現実を褒めてもらいた」というタイプなので、麗子はいい妻だったと思いますが、男の身勝手で簡単に別れられたら、すっと年上の女性はたまりません。
ですから、麗子は生涯離婚に応じませんでした。理由は宗教上離婚ができなかったともいわれていますが、女の意地をみせたのでしょう。まるで、決して離婚しなかったピカソの最初の妻のようで、 小気味がいいです。勿論、10歳も年下の男性と結婚するリスクを考えなかった麗子にも、非はありますが。池田の法的は妻はこの麗子だけです。
池田満寿夫の恋人 富岡多恵子
引用元:https://longdream.wordpress.com/2012/04/27/
麗子との別れは、詩人・小説家の富岡多恵子(1935−)の出会いです。
妻帯者である池田は知人の紹介で、新進気鋭の詩人、富岡多恵子と出会いまとの出会いです。1歳年上の多恵子は、平凡な主婦であった麗子と違い、才能を認められていた彼女は、池田にとっても魅力的な付き合いでした。離婚を認めない麗子を置き去りにして、池田は25歳の時に多恵子と駆け落ちし、同棲をします。
池田は1965年、ニューヨークの近代美術館で日本人初の個展を開催します。多恵子とともにニューヨークと日本の2拠点で生活をします。多恵子は池田の
通訳や作品製作の助手、芸術家との交流など、夫の黒子役をしていました。
池田は1966年 第1回クラクフ国際版画ビエンナーレ、第33回ヴェネツィア・ビエンナーレに入賞。
ある種の関係 1966年第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ 引用元:https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2007/360.html
しかし彼女も文学への欲望は強く、池田のサポートだけの役割に不満をもち8年間で破局。
多恵子はその後、9歳年下の現代美術家の菅木志雄と結婚。フェミニストである多恵子ですが、異性は拒まなかったようですね。それにまた池田と同じ現代美術家を選んだのも彼女の嗜好と思考が伺えます。しかし、池田の作品ににじみ出るように男のエゴには、耐えられなかったのではないでしょうか。
リーラン・ジー
引用元:https://li-lan.com/art-of-2-cultures-and-2-generations-by-barbara-delatiner
池田は多恵子と別れてから、9歳年下の中国系アメリカ人のリーラン・ジーと生活し始めます。リーランは画家ヤン・ジーを父にもつ現代芸術家で、リーランが池田の版画に興味を持ったことから、付き合いが始まりました。
二人は1969年からニューヨークと日本に住居・スタジオを持ち活動をします。
そして、池田は小説を書き始め処女作『エーゲ海に捧ぐ』が77回芥川賞を受賞。この「描く」と「書く」を両立できるずば抜けた才能は、称賛すべきですが、リーランにとっては、困惑でしかなかったようです。美術家として文学まで手を染めることに理解ができなかったのです。
そのうえ、池田はこの小説を原作に映画を創るため、監督までします。リーランはカンヌ祭のときは妻として池田に同席していますが、映画の撮影中は池田とともに行動をしませんでした。
お互い美術家として惹かれ合ったふたりですが、池田が小説を書いたり映画製作に没頭することが、リーランには耐えられなかったのでしょう。彼女が求めた夫は純粋な美術家であり、マルチな活動をしてどんどん新しい境地を開拓していく池田を受け入れられませんでした。
ふたりはアメリカで婚姻届をだしており、アメリカでは夫婦でした。これはアメリカで生活する日本人の池田にとって有利なことであるので、結婚はビジネス的な感じもします。この破局のあと離婚届を出したかどうかは定かではありません。
桶田満寿夫の最愛の妻 佐藤陽子
引用元:https://www.pinterest.jp/pin/520025088194044964/
世界的ヴァイオリニストである佐藤陽子が池田と出会ったのは、テレビ番組のリポーターとして、映画撮影中の池田を取材するためでした。
陽子は8歳でレオニード・コーガンに才能を認められ、翌年よりソ連政府の給費留学生としてモスクワ音楽院附属学校に進学。13歳でにモスクワデビューを果たし、モスクワ音楽院を首席で卒業。その上、声楽をマリア・カラスに師事し、ソプラノ歌手として、1975年にルーマニアのブカレスト国立歌劇場から「蝶々夫人」でデビューし、絶賛を浴びます。陽子も天才肌の芸術家です。
1976年 27歳で帰国し、アーティストとしての演奏活動のかたわら、エッセイの執筆やミュージカル歌手としてタレント活動も続けました。
陽子もまた恋多き女性で、池田と合ったときは熱愛の末結婚した、パリの外交官・(後の総理補佐官)岡本行夫の妻でした。しかし、この時すでに陽子は妻子ある男性と不倫の恋をしていたのです。リーランとの破局も、陽子の出現によることが大きいですが、こんな魔性の女が相手なら、リーランも池田を諦めざる得ないでしょう。
二人は1980年に結婚宣言をして、熱海に住居をかまえます。陽子は岡本とは前年に離婚していました。
多いときで20匹もの犬とともに暮らした池田と陽子の熱海の自宅 引用元:https://www.pinterest.jp/pin/520025088219113611/
池田は陽子と暮らし始めてから、今度は陶芸にも着手します。 池田の陶芸作品はあえて割れるように制作し、「破壊の美学」と名付けられています。最高傑作と言われる般若心経シリーズの作品でまたしても新境地を開拓しています。
ふたりの熱愛ぶりは凄まじく、池田は「僕は陽子にGパンをはかせたくない。他の男に彼女のピップラインをみせるなんて耐えられない!」などど公言するほどでした。いくら天才的で国際的な芸術家カップルであっても、時代的に受け入れがたい素直すぎる愛の表現でした。
池田も陽子も多くの海外の仕事をこなしていましたが、陽子のほうが自分の独自の活動を抑えて、池田に合わせていました。ふたりでの共演も度々開催し、池田が1997年 心不全で亡くなるまで、人も羨むようなおしどり夫婦でした。
ふたりの自宅兼アトリエは、池田の死後、陽子によって熱海市に寄贈され、現在「池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家」として公開されています。
引用元:https://www.ataminews.gr.jp/spot/108/
陽子は池田の死後も、彼の作品の価値を高めるための講演や個展を開催していました。
佐藤陽子 肝臓がんのため2022年7月19日逝去。
池田満寿夫は妻たちに何を求めたのか
引用元:https://www.kurumaerabi.com/car_mag/list/4947/
池田は1957年の第一回東京国際版画ビエンナーレ展で入賞してから、その天才性を多岐にわたって発揮します。その影には必ず妻と呼べる女性がいました。どの妻たちも、芸術家の池田にとってはミューズでありました。
麗子は池田にアトリエをもたせ、生活を負担し経済的に援助しました。多恵子は池田にアートワールドで影響力のある人物を紹介しました。リーランは、池田の世界的芸術家としての価値をひきあげ、陽子は池田に多くの可能性と開かれた未来を与えました。
池田は承認欲求の強い人物であったとそうで、常に側に褒めたたえてくれる誰かが必要だったとききます。妻たちは見事にその彼の欲求に応え、池田をそれぞれの方面で満足させたことでしょう。
彼は多岐にわたって芸術活動をしていたので、評論家にはそれほどいい印象を与えませんでした。ですからパートナーが常に励まし、彼の芸術性を肯定しなければならなかったのです。その役割を妻たちは見事に果たしています。彼女たちは、自身の核を持ちながら、池田の創造性を信じサポートしてきたので、それぞれの妻が、その時期のベストの女性であったといえるでしょう。
reference:
https://www.artelino.com/articles/masuo-ikeda.asp http://www.artnet.com/artists/masuo-ikeda/biography https://www.moma.org/artists/2801/