オーストリアの画家 グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862年7月14日 – 1918年2月6日)は、官能的な女性像に生と死の隠喩を含めた作品で、世界中の人を魅了しています。
美しい女性像を描くにあたって、多くのモデル兼愛人たちと同居していたのは有名ですが、クリムトのミューズといえる女性はエミーリエ・フレーゲではないでしょうか。
彼の創作活動に欠かせなかったエミーリエの経歴やクリムトとの出会い、二人の関係を作品を見ながら考察していきます。
エミーリエ・フレーゲ Emilie Flöge
生年:1874年8月30日
没年:1952年5月26日 享年76歳
出身地:オーストリア
職業:ファッションデザイナー
エミーリエは洋裁店を経営する両親の4番目の子供として生まれました。姉が2人と兄がいます。
エミーリエは姉の洋裁学校で働き、2人で多くのコンテストで受賞します。展示用のドレスなどの注文が増え、1904年以降、実業家としても成功し、ウイーンでオートクチュールファッションサロンのオーナーになりました。
彼女のブティックで作られる服は、女性をコルセットなどで、締め付けるようなファッションから解放しようとする合理的で人間の動くに合わせた、ゆったりとしてものです。多くの場合、Aラインのシルエットで、生地のゆるやかな幅が特徴です。フレーゲのデザインは「改革的ドレス」と呼ばれ、自由の精神で、女性たちをタイトなコルセットから解放し、ゆったりとしたフィット感で女性らしさを強調しました。
引用元:http://simplevirtues.blogspot.com/
パリとロンドンに旅行に行った際に、シャネルやディオールの影響も受け、似たようなスタイルも取り入れます。しかし、1938年のドイツ第三帝国の侵入により、多くの裕福なユダヤ人の顧客を失い、店を閉めなければなりませんでした。その後は自宅でファッションデザインと制作をしていました。
クリムトとの出会いと関係
1891年、エミーリエの姉であるヘレネは、グスタフ・クリムトの弟、エルンストと結婚し、親戚関係になりました。
しかし、エルンストは翌年亡くなり、ヘレネとの間に生まれたばかりの子供がいたので、クリムトが保護者となり頻繁にフレーゲ家を訪れるようになります。この時エミーリエは18歳。クリムトは30歳でした。
後年、クリムトが好んだ好んだアッター湖には、毎夏フレーゲ家の人たちと避暑を楽しんでいます。
引用元:https://marinamade.me/
エミーリエとクリムトの関係ですが、良きビジネスパートナーとして、プラトニックであったという専門家もいます。しかし、夏のアッター湖で2人だけで散歩をしたり、舟遊びをしているときに、どのような思いが芽生えていたかは定かではありません。
クリムトはモデル兼愛人を常に数人自分のアトリエに住まわせていましたし、恋多き男性であったのは、彼の外見からも隠しきれません。
また、クリムトが決して結婚しなかったように、エミーリエも生涯独身を通し、クリムトが亡くなってからの34年間もずっと1人でした。結婚という法的な形はとらなくても、2人は唯一無二のパートナーの関係だったとも推測されます。
エミーリエをモデルとしたクリムトの作品
クリムトはエミーリエをモデルとして多くの作品を描いていますので、代表的な作品を紹介します。
エミーリエ・フレーゲの肖像
1902 引用元:https://www.paintingmania.com/
エミーリエが28歳の時の肖像画です。この時すでに、彼女のデザインした服はウイーン女性から注目の的でした。クリムトは自分の裕福なユダヤ人一家をエミーリエに紹介し、彼らはエミーリエのドレスを着て、クリムトに肖像画を依頼するようになりました。
クリムト自身もエミーリエに服のデザインを注文していましたし、このドレスは彼女の肖像画のために、わざわざ依頼したものです。
この絵は、クリムトがエミーリエのファッションの才能を愛していたことを表現する一枚と言えるでしょう。
余談ですが、クリムトはほっそり系の女性体型が好きで、エミーリエを描くときも実物より細く描きましたが、エミーリエには気に入らなかったようです。自分の体型に自身を持っていた彼女は、後にこの肖像画を売却してしまいました。
The Kiss 接吻
1907 引用元:https://www.legendarte.com/
誰もが愛する『The Kiss』のモデルもエミーリエで、この作品が発表された頃から、2人が恋人同士であるという説がでています。
この絵の女性の腕の回し方、指の形、足の曲がり具合をみれば、これが異性を知っている成熟した恋であることは瞭然です。
男性のモデルはクリムトではないでしょう。クリムトは芸術的に男性には全く興味を示さなかったし、この絵で男性モデルが重要でなかったことは、ありきたりな男性のポーズによってもわかります。
両手で顔を覆われ頬にキスしただけで、恍惚の表情を浮かべる女性の微笑み。クリムトに熱い恋情をいだいていたエミーリエの姿を間近に見て、クリムトが満ち足りた愛を絵の中で再現したとは考えられないでしょうか。
クリムトとエミーリエの絆
1918年1月11日にクリムトは脳卒中で亡くなっていますが、彼の最後の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」でした。意識が朦朧とする中、最愛のパートナーに側にいてほしかったのではないかと思われます。
クリムトの死後は、彼の半分の財産はエミーリエに譲渡されたことも、兄弟や庶子たちより大きな信頼関係があったのでしょう。しかし、残念ながらエミーリエが受け継いだクリムトの作品の殆どは、大戦の最終日に自宅が火事になり、消失してしまいました。
少し疑問に感じることは、クリムトは愛人たちの間に14人もの子供がいたのですが、エミーリエとの間には子がいませんでした。けれど、この事実の解釈も、肉体よりも強く知性と感性で結ばれた唯一無二の2人の関係性を証拠として表していると受け取ることもできます。
クリムトの死後、大戦を経験し、大きな苦労をしながらも、34年間も生き抜いたエミーリエの力強さも、クリムトへの衰えることない情熱的な愛の証ですし、またクリムトもそんなエミーリエだからこそ、心の奥深くから愛してやまなかったのでしょう。