彫刻

平櫛田中の経歴とエピソードや家族について。記念館や彫刻美術館の紹介!

明治、大正、昭和にかけて写実彫刻家として近代日本の代表作家、 平櫛田中(ひらくし でんちゅう)。

107歳という長寿で、死ぬ間際まで精力的に制作を続け、日本の彫刻家の中では一番長命であり、死去時点では男性長寿日本一でもありました。

平櫛田中の経歴、学歴、賞歴、作品、家族(妻、子供、子孫)をエピソードを交えながら見ていきましょう。

また、平櫛田中美術館や記念館も紹介します。

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平櫛田中の経歴・学歴・賞歴

「平櫛田中」の画像検索結果"引用元:http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/

本名:平櫛倬太郎 (ひらくし たくたろう)

生年:1872年2月23日

没年:1979年12月30日 享年107歳

出身地:岡山県井原市

学歴:中谷省古、岡倉天心に師事

平櫛田中は岡山県井原市の田中家に生まれますが、10歳の時、平櫛家の養子となります。子供の頃は勉強も運動も好きなわんぱくであったと言われます。小間物屋問屋で丁稚奉公をしているときに、「銅器」に興味を持ち、店の番頭の勧めもあり、22歳時に人形師の中谷省古(なかたに せいこ)に弟子入りし木彫り彫刻を学びます。

1898年 26歳で上京し、高村光雲に師事しながら、台東区の長安寺に寄宿します。(台東区にはその後約75年間住み続けます)日本美術協会美術展、文部省美術展覧会などに出品し受賞。また、岡倉天心に日本伝統彫刻の新人として認められ、共に「日本彫刻会」を結成。

1937年、帝国芸術院会員となり、1944年には帝室技芸員、東京美術学校の教授に招聘され、第二次世界大戦後も教壇に立ちました。

1958年、6代目尾上菊五郎をモデルにした大作「鏡獅子」を戦中のブランクを経て、22年をかけて完成させました。

http://www.tamamanw.jp/museum/01/07.html

鏡獅子 木彫彩色  

1965年 93歳で東京藝大名誉教授。

1972年、田中の出身地である井原市が主催し平櫛田中賞を設け、1979年(昭和54年)、東京都小平市の自宅で107歳で永眠。

主な賞歴

  • 1901年 日本美術協会美術展 銀牌を受賞
  • 1907年 文部省美術展覧会 入選
  • 1962年 文化勲章 受章

平櫛田中の家族  結婚した妻、子供、子孫

家族とともに写真左から 次女京子、平櫛田中、妻花代  引用元:http://www.city.ibara.okayama.jp/

田中は1907年 35歳のとき秋野花代と結婚します。苦楽をともにしましたが、田中が76歳のときに先立たれています。

二人の間には3人の子供がいました。長女 幾久代(きくよ)、長男 俊郎(としお)、次女 京子(たかこ)です。しかし、関東大震災のあと、子供たちは結核にかかってしまい、幾久代(19歳)と俊郎(18歳)は亡くなってしまいます。このあと、子供たちの命を偲ぶ作品「新春」を制作しています。

孫の弘子さんは、現在、平櫛田中彫刻美術館の館長をなさっています。

平櫛田中のエピソード

「星取り法」で多くの作品を創った

「唱歌君が代 平櫛田中」の画像検索結果"唱歌君が代 1901 引用元:https://twitter.com/

高村光雲に師事しているとき、先輩に米原雲海がいました。雲海から星取りの技法(粘土の原型に点・星を打って木を写し取り彫っていく)を学んで多くの作品を創りました。第一作目の『唱歌君が代』は銀牌賞を受章。木彫とは思えないほどの精密さです。のち宮内省の買い上げとなりました。

日本美術院に塑像研究所をつくる

木彫刻に人体の現実味が無いとの評価があり、田中は日本美術院彫刻部内に塑像の研究所をつくり中心となって活動し、3年の間研究に没頭し、売るための作品は一切創りませんでいた。

自宅は日本画の巨匠たちが建てた

「平櫛田中 自宅」の画像検索結果"引用元:https://twitter.com/

日本画家の横山大観、下村観山、木村武山の尽力で台東区上野桜木町に自宅兼アトリエを建てます。田中の才能と将来性に、当時から有名だった画家たちが自分たちの絵を売って資金を作り、出費してくれたのです。

岡倉天心を崇拝していた

「平櫛田中 岡倉天心像 芸大」の画像検索結果"引用元:https://kurakame.exblog.jp/

岡倉天心との出会いは田中の人生を大きく変えrたものであり、田中は天心に生涯尊敬していました。天心が亡くなった後も、田中はポーズのちがう天心像を、いくつも制作しています。

東京美術学校から岡倉天心像を依頼され、現在でも東京芸術大学のの六角堂に安置されています。

田中は美術学校に勤務していたときは必ず学校に着くと毎朝、天心像の前で最敬礼して、尊敬の念を一生忘れない人でした。

死ぬまで現役思考

田中は90歳を過ぎても、健康のためめったに車を使わず、歩いて移動していて、弟子や後輩が「車に乗ろう」といいだすと、カンカンに怒って説教を始めたそうです。

また、100歳のとき、30年以上続けて制作できるだけの彫刻用の材木を購入しています。あと30年は彫刻を制作するつもりでいたのですね。この材木を利用して、井原市の田中美術館に上野桜木町のアトリエが再現されました。

平櫛田中彫刻美術館 記念館・展示館

「平櫛田中彫刻美術館」の画像検索結果"引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/

常設展示では、田中の代表作である「鏡獅子(かがみじし)」や、「尋牛(じんぎゅう)」、「気楽坊(きらくぼう)」などが展示されています。

また、年に4つの「企画展」、2年に一度、全国から作品をあつめて企画する「特別展」を開催しています。
 
田中が生前暮らしていた邸宅 書院造りの記念館があり、百歳のときに、20年後の制作のため取り寄せた彫刻用の原木も見ることができます。
 
「平櫛田中 記念館」の画像検索結果"引用元:http://www.komei.or.jp/
 
小平市平櫛田中彫刻美術館
住所:〒187-0045 東京都小平市学園西町1-7-5
電話・ファックス: 042-341-0098
開館時間:午前10時~午後4時
 
詳細は小平市のホームページを御覧ください。
 
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年齢を重ねるごとに力強く生きる

平櫛田中の名言のひとつに「六十、七十は鼻たれ小僧、男ざかりは百から百から、わしもこれからこれから」とあります。

まさにこの言葉は田中そのものの人生を表していて、歳を取るごとに学びを増やしていき、精力的に自分の信じる道を突き進む力強さを感じます。

自分の願望に熱い情熱を持ち、諦めずに一生追い求めていく大事さを私たちに教えてくれる一言ではないでしょうか。そして、経済的には苦労をかけた時期もありましたが、家族との深い愛情と絆を持ちながら生きていたのも、芸術の鬼だけではなかった人間の温かさが作品に表れているので、多くの人を魅了するのでしょう。

参考:
井原市田中美術館
小平市
DenchaLab
 ウィキペディア 平櫛田中

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