夭折の洋画家 岸田劉生(きしだ りゅうせい)。
白樺派 武者小路実篤との親交もあり、劉生の愛娘を描いた『麗子像』は、万人の知る画であります。
実は岸田劉生は、娘だけでなく、妻 岸田蓁(きしだ しげる)の肖像画も多く描いています。
経歴や作品から2人がどんな夫婦関係であったかを考察してみました。
岸田劉生の妻 蓁(しげる)のプロフィール 経歴・学歴
引用元:https://twitter.com/KoichiYoshizuka/status/1307428023185141761/photo/1
氏名:岸田蓁 旧姓 小林
生年:1892年2月1日
没年:1964年10月12日 享年72歳
学歴:東京都立竹早高校
職業:画家、茶人
1892年に学習院の漢学教授 小林良四郎と妻シンの三女として生まれました。在学中から鏑木清方(かぶらき きよかた)に師事し、日本画を学んでいます。
鏑木 清方(かぶらき きよかた)日本画家
1878−1972。東京生。新聞や雑誌で挿絵を執筆し、金鈴社を結成。伊東深水と並び美人画に多くの秀作で有名。文筆家でもあり『こしかたの記』などの随筆集がある。帝室技芸員・芸術院会員。文化功労者。文化勲章受章。
1912年に フュウザン会展での劉生の出品作品「曇日」「自画像」などに蓁は感銘をうけ、文通がはじまり、翌年の1913年7月に2人は結婚。劉生22歳、蓁21歳のときでした。
しばらくは府下の西大久保にあった蓁の実家の2階に住み、翌1914年4月10日に長女の麗子が誕生し、1926年、長男鶴之助が生まれます。
引用元:https://ameblo.jp/seuratsan/
蓁は劉生の絵のモデルを務めたり、家事育児を自分の制作よりも優先して、家族に尽くしました。
1929年、劉生が38歳で亡くなった後は、江戸千家渭白流(えどせんけいはくりゅう)を再興し、6代川上渭白(かわかみ いはく)となり、茶道の師匠をしていました。
岸田蓁がモデルになった岸田劉生の作品
画家の妻 1915
引用元:https://twitter.com/artizonmuseumJP/status/958169962564087808/photo/2
蓁は日本的な顔立ちだったのですが、劉生が西洋的な技法に傾倒していたころに描かれた作品なので、かなり骨格をはっきり表現しています。当時24歳であった蓁が40代の中年女性のように見えるのは、デューラーのような写実をもちいたせいでしょうか。
背景の臙脂色と、画面上部のアーチ型のふち飾り、左下の「PORTRAIT OF SHIGERU」の文字、「R.KISHIDA」の文字がはいった紋章が、中世ヨーロッパ風の宗教画のような雰囲気を醸し出しています。
焦点の定まらない下目遣いで胸に左手をおき、祈るようなポーズを劉生に取らされたいた蓁は、この時何を考えていたのでしょうか。
劉生は、この作品の1年前ぐらいから、似たようなポーズで「画家の妻」として何枚も描いています。
初期の作品は、背景の色も明るく蓁は、しっかり前を見て髪を垂らし、口元は微笑みさえ浮かべています。聖母マリアを連想するような構図で、若々しさと彼女の優しさも伝わってきています。実に劉生のスタイルを用いながらも、実に素直に愛する新妻を描いていると感じられます。
南瓜を持てる女 1914
引用元:https://twitter.com/binetsujoshi_PR
麗子を産み母になったばかりの蓁をモデルにした農婦を聖女に見立て、大地の豊穣と生命感を表現しています。
また2012年に発見された作品「黒き土の上に立てる女」も、表情は違いますが、胸をはだけた豊かな女性の構図で、同じ意図で描かれています。
引用元:https://www.shinwa-art.com/
麗子を生んでくれた妻に対しての感謝と尊敬を、自然の恵みと合わせ神秘性も伴い、劉生の愛情を感じます。また、良家の子女でインテリであった蓁が、半裸のモデルになったのも劉生の芸術的才能を信じていたからでしょう。
岸田劉生と蓁 夫婦の関係の考察
劉生は大正、昭和初期の典型的な芸術家の夫でした。
裕福な家に生まれ不自由なく育ったせいもあり、自分の思い通りに製作が進まないと家族に八つ当たりするタイプの男性で、蓁にも暴力をふるうことは日常茶飯事出会ったようです。
夕方、長与へ帰り、九時頃帰らうと云ふのに蓁おちついて帰らず皆で、耳ジヤコなどして遊ぶ中おそくなりとうとう十一時の電車でなくては帰れぬ事になり、余かんしやくおこし、蓁とけんかし、夜ねしなに蓁が生意気なので、少しなぐつたりする。 (1921年7月30日)
今日は仕事しやうと思つてゐる矢先き、いつもめしをたべないと落ちつかぬくせがあるのでそれからかんしやくになり、蓁とけんかし、蓁が又たてついて戸外に逃げ出したので、とび出して、倒して引きづつて玄関へ来た。蓁はそのため、ひざその他をすりむいてしまつた。(1921年8月22日)
出典:『岸田劉生全集』第6巻
劉生はこうして暴力を奮った後、大変反省し自己嫌悪に落ち込み、翌日には妻へアクセサリーやお菓子を買ってプレゼントしたそうですが、数日経てば、また癇癪を起こし乱暴をしていました。
精神的にかなり摩耗していたのでしょうが、アンガーマネジメントなどの治療もない時代ですし、夫が妻に暴力を振るうのが当たり前の時代でもありました。蓁のことをとても愛していて、彼女がいなければ生活ができないほどでありながら、DVをする。結局は、劉生は蓁にべったり甘えていたわけです。感情をコントロールできないEQの低い繊細なところが、彼の芸術性を高めたとも受け取れますが。
蓁は、劉生から罵倒されても殴られても、彼と生活をともにし、自分の絵画制作もほとんどせず、夫の無理難題なモデルの注文を休みなく引き受けて、家事と育児をこなしていきました。夫に尽くす演歌の女、といったところでしょうか。この蓁の忍耐は、劉生の才能を信じていたのと同時に、気性の激しい夫に従う従順な妻に憧れていたのかも知れません。
しかし、内心は穏やかな日々を求めていたにちがいありません。それは、劉生の死後、無の境地に入ることができる茶道の師範になったことが、その証ではないでしょうか。
夫婦間のことは他人にはわからないといいます。劉生と蓁の間にも、我々の考える常識的な愛を超えた、2人だけが築き上げた強く華麗な愛があったことは、間違いがないと思います。
参考:
ウキペディア 岸田蓁
OHARA MUSEUM OF ART
落合道人 画家たちのDV
SHINWA AUCTION ブログ 51年ぶりに発見された幻の作品