ゴッホの『ひまわり』に感銘を受け、18歳で画家を志し上京した棟方志功(むなかた しこう)。
日本での洋画の道を模索しながら、川上澄生の『初夏の風』に心を奪われ、30歳を過ぎてから版画家に転身。以後、棟方は版画の世界と巨匠と呼ばれるようになります。
彼の創り出す太く柔らかな曲線と温かみのある色彩は、棟方志功の妻へ家族への愛の象徴であるとも言われています。
ここでは、棟方志功の結婚した妻、子供、子孫についてみていき、妻チヤの愛の形を考察してみました。
棟方志功の妻 赤城チヤ
棟方志功とチヤ 引用元:https://rekisiru.com/12510
妻の赤城チヤは、青森県鶴田町の出身で、志功の幼馴染の紹介で出会いました。当時、看護師をしていたそうです。
デートも志功の写生につきあわされ、二人で墨だらけになることも多かったとか。この頃から志功はチヤが自分がもっていない部分、欠けている部分をもっていて、補ってくれる存在であるときがついていたようです。
志功27歳、チヤ21歳のときに、志功の子供時代からの遊び場所でもあった善知鳥神社で結婚。善知鳥神社(うとうじんじゃ) 引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E7%9F%A5%E9%B3%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE
しかし、結婚はしたものの二人は別居生活となります。志功は文化学院で美術教師をしていましたが、経済的には豊かでなく、友人たちと共同生活をし、チヤは青森に残りました。
2年後に、なかなか呼び寄せてくれない志功にしびれを切らし、チヤが上京。その後、4人の子供が生まれ、幼子を抱え、その日の食事にも困るほどの貧乏暮らしだったこともあります。けれど、チヤは志功が亡くなるまで献身的に支え続けました。
棟方志功の子供たち
棟方けよう
長女。1931年生まれ。志功 28歳のときで、妻チヤとは別れて暮らしていたとはいえ、時々は会っていたようですね。
けようの夫、宇賀田 達雄(うがた たつお])は、日本の民芸運動研究者、美術評論家、朝日新聞の記者も務めました。最晩年の志功と生活を共にし、『祈りの人 棟方志功』を出版しました。
引用元:https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=5603
棟方巴里爾(むなかたぱりじ)
長男。1933年ー1998年。
青山学院大学文学部卒業後、経歴劇団民芸に所属。「法隆寺」の武将でデビューし、代表作に「赤ひげ」の森半平太、「夜明け前」の佐吉、「アンネの日記」のデュッセル、「三年寝太郎」のしゃっくり男など。棟方板画美術館館長も務めました。
棟方ちよゑ
次女。1935年生まれ。
冒険家の三浦雄一郎さんの従兄弟にあたる小泉礼さんと結婚し、「絵手紙フォーラム遊彩」の会長。
棟方令明 (むなかた よしあき)
次男。1941年生まれ。志功が38歳のとき。
元「棟方板画美術館」の館長でした。鎌倉市にあった棟方版画美術館は青森の「棟方志功記念館」と合併するために2010年)9月に閉館しています。
棟方版画美術館跡 引用元:https://4travel.jp/travelogue/11342644
棟方志功の子孫
石井頼子
引用元:https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=19215
長女けようの娘。1956年生まれ。鎌倉市の棟方板画美術館に学芸員として勤務していました。棟方志功研究家、日本民藝館運営委員として、展覧会の監修、執筆活動、講演などをなさっています。著書に『棟方志功の眼』、『言霊の人 棟方志功』、『もっと知りたい 棟方志功』などがあります。
引用元:アマゾン
妻チヤは良きファム・ファタル?
チヤが志功の「運命の女性」であったことは間違いないでしょう。
お互い理想の異性を探し求めていた過程で出会ったわけではなく、知人の紹介というごくありふれた機会で巡り合ったに過ぎません。しかし、チヤと結婚してから志功は数々の賞を獲得していきます。そして苦難をともにし、最後まで志功が感謝しつづけた女性でした。
志功は幼い頃から極度の近眼で、57歳で眼病が悪化し左目を失明してから、右目だけで、まるで這うようにして版画を制作しています。
引用元:https://inakamon.jpn.com/wp/aomori-munakata-shiko/
制作に入ると一心不乱で他のことは何も見えず聞こえず考えられずにひたすら没頭した志功ですから、実際の生活ではチヤがすべて取り仕切っていたに違いありません。子供3人を育て上げ、日々の生活費の工面はほとんど彼女が行わなくてはならなかったでしょう。そして、極度に目が悪かった志功の製作中にも、画材の準備や整理さえもしていたかもしれません。チヤが画商との交渉や当時の文化人たちとの交流をどれほどしていたかは定かではありませんが、それを抜きにしても彼女は志功が芸術家志功であるための必然的な存在でした。
チヤは「志功自身が自分の信じるもの、宗教である」と言い放ったそうですが、その盲信的な愛はどこからきたのでしょうか。自分の夫が才能を開花させ、芸術の世界に大きな影響を与えることを確信していたのはなぜなのでしょうか。
女性にそなわっているスピリチャルな直感と原始からの本能が、志功への愛を築き上げたような気もします。これはチヤの卓越された才能といってもいいでしょう。
「運命の女性」を「ファム・ファタル」と表現する場合があります。しかし大概にしてファム・ファタルは男性を虜にし破滅させてしまう「魔性の女」です。チヤにも「魔」というものがそなわっていたに違いありませんが、それは「陽」であり白く光り輝いていた愛でした。情熱の中の忍耐と平穏の維持を助け、志功の芸術を常に上昇させたかけがえのない妻。チヤは志功の運命の女性、「良きファム・ファタル」という言葉が頭に浮かんできます。