大正時代から昭和にかけて出版されていた児童雑誌『コドモノクニ』。
B5版という大きさに5色刷りで見開きページが多くあるこの雑誌は、子供向けでありながら大人も楽しめる本であった。
それまでは子供向けの本であっても挿絵は小さく数枚しか入ってなかったが、この雑誌では値段は高価であったが、カラーで大きな挿絵を十分に楽しめた。これは画家やイラストレーターにとっても自分の作品が世間に知られる良い機会であったため、芸術家たちにとっても制作人気があった。
この『コドモノクニ』の雑誌の絵画主任は夭折の画家岡本帰一であった。
岡本帰一の略歴
1888年6月12日、兵庫県淡路島州本に生まれる。父親が宮古新聞社勤務で幼少に北海道に住んだりするが、その後の転勤で14歳で東京に住む。
子供の頃から完成が豊かで絵画に深い興味を持っていた。1906年、18歳で黒田清輝に師事し、白馬会葵橋洋画研究所に入門。油絵を学び岸田劉生らと美術グループを結成する。
1912年フュウザン会展を岸田、斎藤 与里、木村荘八らと開き、ポスト印象派やフォービズムに傾倒する。しかしこれが黒田清輝の怒りを買い、黒田とは師弟関係に終止符を打った。
1914年からは版画や、児童雑誌の挿絵を描き始める。この年に結婚してのちに二人の息子を授かり、長男肇は、ヨット写真家となった。
1919年に児童文学と歌の雑誌『金の船』に表紙絵、挿絵に携わる。ここで、野口雨情と知り合い、その後も野口雨情の歌の挿絵を多く描くことになる。
1922年、『コドモノクニ』の主任画家になる。岡本の挿絵には以前はポスト印象派であったにもかかわらず、繊細で精密なエドマンド・デュラックやアーサー・ラッカムの影響を大きく受けているのがわかる。
1927年に児童画家協会を武井武雄、村上知義、清水良雄らと創設し、岡本は1920年代でもっとも人気のある有名児童画家となった。
しかし1930年12月29日、腸チフスのため42歳で東京で逝去した。
岡本帰一の作品
大仏さま お身払い
東大寺の大仏を掃除する毎年恒例の儀式「お身払い」を子供たちが行っている光景。最古のブロンズ像であるこの15メートルの大仏を清掃するのは、大勢の子供たちが役割分担を決めて行っているように見えるのは、帽子の色が各々違っているからだろう。どの子供も動きがあって顔の表情が描かれていなくとも楽しそうである。特に螺髪の間に入り込んで掃除している子供のポーズに空想が広がる。
コドモノクニの挿絵
岡本帰一の挿絵と『コドモノクニ』
兎のダンス 1924 引用元
画力に優れた岡本帰一の絵は、大人が見れば素晴らしいものだが、当時の子供達はどう感じでいただろう。
高技術の漫画やアニメがいたるところで見られる現代の子供たちには、岡本帰一の挿絵は興味のもてる絵柄ではないだろう。そして今から100年前であっても、子供というものはフワフワとした不思議な可愛らしいものが好きだ。そうであるなら岡本の絵は当時の子供たちには不評だったのではないか。
岡本の挿絵は影響を受けたアッサムやデューラックの繊細な描線を簡略化しているのだが、硬質な印象を受け、柔らかな感触を想像しにくい。
そして勿論この時代にはなかった現代日本に蔓延している「かわいい文化」の欠片さえ見えない。岡本の絵はそれほど写実的ではないが、それ故に生まれる親しみやすさや、読者に媚びる可愛さを感じない。
この高価な雑誌を買った親は「美しく子供向けに可愛らしく絵が描かれている」と親が気に入って自分の子供に与えたのだろう。確かにこの雑誌は大人にとってかなり魅せられる要素が多い。和製ギフトブックとまではいかないが、大人の読む絵本という感じがする。しかし子供たちはこの絵自体に愛着は持ってなかったかもしれない。描かれている動物やおもちゃ、または物語に一場面に、そのモチーフに惹かれただけだったのではないだろうか。
シンプルでシャープな描線に、浮世絵的な平坦な図柄、それでいて人や動物たちの表情は西洋風で色彩のセンスも日本的とは言えない。絵の中の生き物は、動きの一瞬を切り取られたように、ずっとそのまま静止していそうで、薄気味悪い雰囲気を醸し出しているときさえある。
『コドモノクニ』が画期的な子供雑誌であったのは、美術的に子供用ではなかったからだろう。これは多くの画家、もしくはイラストレーターたちが、陽の目を見ることができる素晴らしい機会だった。
もし、岡本帰一があと20年長く生きていたら、「かわいい文化」の草分け的な絵柄に作品は変わっていっただろうか。それともずっとあの和洋折衷の個性あるさくひんを描き続けていたのだろうか。