近代日本画家の最高峰 横山大観(よこやま たいかん)の名を知らぬ日本人は少ないでしょう。
橋本雅邦、岡倉天心に師事し、日本美術院の創立にも加わり、大観の作品は天心の理想主義を表現していると言われています。
ここでは横山大観の3人の妻・子供・子孫を紹介します。
かなり破天荒な人生を送った大観と妻の夫婦の関係はどんなものだったか、エピソードを交えながら見ていきます。
最初の妻 滝沢文(ぶん)
引用元:http://www.asahi.com/travel/
1897(明治30)年、29歳で長野の上田の儒者の娘である文(ぶん)と結婚。けれど翌年、岡倉天心が東京美術学校の校長を辞職したので、大観も一緒に辞めてしまします。これは、日本美術学院を設立するためでもあったのですが、経済的に苦しかったので、文は苦労しました。
もともと大観はお酒に弱い体質だったのですが、敬愛する天心から「酒がのめなくてどうする」と言われ、お酒を飲むようになりました。文と結婚したときにはもう立派な酒豪でしたので、食費がないので酒をやめてくれ、と頼むと、酒は辞めず、食事を取らなくなったそうです。これが、大観が酒だけで生きてきたと言われる始まりかもしれません。
2年後の31歳で長女初音が生まれます。しかし、3年後の1903年に文は肺病で亡くなります。5年間の短い結婚生活でした。
大観はこの年、東京美術学校の後輩、日本画家の菱田春草とともに海外に渡ります。この頃、大観と春草は西洋画法を取り入れ、線描を抑えた「朦朧体」の画風をとる入れていましたが、美術院の保守派から、猛烈な批判を受けていました。それで海外に出て、カルカッタ、ニューヨーク、ロンドン、パリなどでの展覧会を開き、大成功を収めています。
大観はカルカッタに訪問したとき、釈迦の実像を描こうとしていました。日本画の原点をインドに見つけ出したようですが、この引き金になるのは、妻 文の死なのではないでしょうか。人間が死んだ後の魂の行方を問うている中、インドの絵画が、彼の心境に溶け込んでいったのではないかと思われます。
不幸なことに、1905年、3歳の初音まで病気で亡くなり、大観はロンドンから帰国します。
2番めの妻 遠藤直子
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1906年、四谷の材木商の娘、遠藤直子と再婚します。
天心の活動「日本美術院絵画部」を支えるために、天心が住んでいる茨城県の五浦に転居します。ここでも生活は厳しく魚を釣って毎日の食事にしていたほどです。この貧しい生活の中で、直子も肺病になります。
大観が五浦に移ってから、父と妹が亡くなっていたので、2番目の妻 直子までも失いたくなかったので、大観は直子を鎌倉で療養させました。鎌倉は日本初のサナトリウムだ設立された場所でもあるので、療養するなら鎌倉だったのかもしれません。しかし、残念ながら直子は1913年に亡くなっています。
3番めの妻 静子
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直子が亡くなった翌年の1914年、判事の娘、20歳年下の静子と結婚。
大観は、父、妹、春草、直子、そして天心までもが亡くなってしまい、ひとりでは到底暮らしていけない心境になっていたのではないかと思えます。
静子は若いながら実にできた妻であったようです。気分屋の大観が気に入らない仕事を引き受けず相手に冷たくあたっても、影で静子は頭を下げて、交際をきらないようにたち振る舞ったとか。帳簿の管理などもしており、大観の秘書も務めていました。
また酒好きの大観のために何升もの酒を毎日酒屋に買いに行っていました。
そんな静子の苦労を大観は知っており、この若い妻を大変大事にして、大観が89歳で亡くなるまで、一緒に人生を過ごしました。
大観は、渡航に同行する静子が現地で着るための着物を、自ら図案を作ったそうです。
東京・池之端の横山大観記念館には、静子のために大観が図案を描き、仕立てさせた着物がほかに10枚も残っています。
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横山大観夫妻とベニート・ムッソリーニ 1930 引用元:https://art-culture.world/articles/
横山大観の子孫
横山大観とはじめの妻 文との間に生まれた初音は6歳でなくなっています。
2番めの妻 直子、3番めの妻 静子のとの間に子供はできませんでした。
大観は、静子の弟 義信(よしのぶ)を養子にします。
横山義信 1898−1977 日本画家、横山大観記念館館長
京都の伏見生まれ。東京美術学校日本画科卒業し横山大観に師事。1933年、再興第20回院展に「初夏」で初入選し、日本美術院院友となります。号は横山大玄(よこやま たいげん)。
1974年、日本美術院特待となり、1976年に、自邸に横山大観記念館を開館、館長を務めました。
孫 横山隆
引用元:https://www.cedyna-mail.jp/mail/
義信の息子で現在 横山大観記念館の館長をなさっています。
隆さんは、小学生のころ、学校が休みのとき、大観と五浦の別荘で一緒に過ごして、歌謡曲を一緒に聴いた思い出があるそうです。
横山大観記念館
公益財団法人 横山大観記念館
住所:東京都台東区池之端1-4-24
電話:03−3821−1017
http://taikan.tokyo/
開館時間 10:00~16:00
休館日 月・火・水 夏季・冬季
横山大観が妻に求めたもの
大観は妻は自分で気に入った人ではないとダメだったようです。
京都で市立学校の教員だったころお茶屋さんの娘と、付き合っていました。そこへ工芸学校の校長が大観を心配して「この娘と見合いしたらどうだ」と勧めたそうです。大観は「申し訳ないが、実は紹介あってお茶屋の娘さんとお付き合いしています。」と伝えましたが、校長から叱責されました。それで、大観は自分の嫁は自分で決めると、辞表を書いて東京に帰ってきてしまったというエピソードがあります。
女性に対しても自分の信じた道をすすむタイプのようですね。そして、妻に求めたのは、ファム・ファタル的な存在ではなく、家族としての愛だったのではないでしょうか。妻が変わるたびに作風に影響はでていたことは確かですが、それは二次的な要素であったと思われます。
最後の妻 静子は、ダリの妻 ガラのように、仕事のマネジメントもしていましたが、静子にそれができなくとも、夫婦としての愛は充分にあったでしょう。自分の芸術性の向上のためでなく、また男としての虚栄を満たすためでもなく、家族としての愛を惜しみなく妻に注いだ大観の純愛は、彼の笑顔に表れているとおもえませんか。
参考:
http://taito-culture.jp/topics/famous_persons/taikan/japanese/guide_01.html p https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E8%A6%B3
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801250246.html https://rekishichips.web.fc2.com/geizyutu4.htm