明治から昭和にかけて活動した日本画家、川合玉堂(かわい ぎょくどう)。
日本の自然を愛し、数多くの風景画を残しました。
本記事では、川合玉堂のプロフィール、略歴、代表作品を紹介します。
また、河合玉堂の家族、孫は玉堂美術館の館長で、有形文化財の別邸もみていきましょう。
河合玉堂のプロフィール、略歴
本名:河合吉三郎 (かあい よしさぶろう)
生年:1873年11月24日
没年:1957年6月30日 (享年84歳)
出身地:愛知県一宮市木曽川町
- 1887年 14歳 京都 望月玉泉の門下に入り「玉舟」の号を与えられる。
- 1890年 17歳 勧業博覧会で、入選。名を「玉堂」に改める。
- 1898年 25歳 橋本雅邦に師事し上京。日本美術院に加わる。
日本美術院とは
岡倉天心を中心に創設され,橋本雅邦をはじめ日本画家,彫刻家,工芸家など十数名が集った。東京谷中初音町 (一時は茨城県五浦) に研究所を設けて美術研究と,院展と呼ぶ展覧会を開催,横山大観,下村観山,菱田春草などが力作を発表した。また『日本美術』を発刊,在野派として明治末期の美術界に著しい業績をあげた。日本美術院,院展と呼び現在にいたるが、洋画部,彫刻部が解散して以来,日本画だけとなった。 引用:コトバンク
- 1910年 37歳 イタリア万国博覧会の監査委員に任命される。
- 1915年 42歳 東京美術学校日本画教授に着任。
- 1917年 44歳 帝室技芸員を拝命。日本画壇の中心的存在となる。
- 1931年 58歳 フランス、レジョン・ドヌール勲章を拝受。イタリア皇帝よりグランオフイシエー・クーロンヌ勲章を拝受。
- 1933年 60歳 ドイツ政府より赤十字第一等名誉章をおくられる。
- 1940年 67歳 1月10日、紀元2600年式典当日、文化勲章をうける。
- 1945年 72歳 牛込若宮町の住宅戦災にあい焼失。12月三田村町御岳に移り「偶庵」と称する。
- 1947年 74歳 歌集「多摩の草屋」刊行
- 1953年 80歳 ブリヂストン美術館映画部により、映画「川合玉堂」を撮影、11月完成。病を得て療養につとめ、以後4ヶ月間制作を行わず。
- 1955年 82歳 大観、玉堂、龍子三人展を開く。大観は松、玉堂は竹、龍子は梅の課題である。名誉都民、青梅名誉市民に推薦される。
- 1957年 84歳 心臓喘息病をおこし、青梅の自宅にて療養逝去。
川合玉堂の代表作品
初期の頃の「鵜飼」は色調が暗く山水画的な背景の岩を描いていましたが、年代を重ねるにつれ、画面は明るくなり鵜飼たちの細かい動作に注意がはらわれています。また篝火には金が使われ、水面にも篝火の光が反射している様子を表すために、水面に金の細い線が入っています。
田植図 1945-54年
はるか水際まで連綿と続く田圃と、田植えに精を出す早乙女たちの姿。ありふれた日本の風景を暖かな眼差しで捉え、軽やかな筆と澄明な色彩で描き出した。玉堂らしい爽やかな一幅。平野を斜めに横切る水路が、画面に広がりと動きを与える。 出典:静岡美術館
行く春 1916年
紙本彩色六曲一双屏風、東京国立近代美術館 蔵、重要文化財
「行く春」制作の前年の秋と同年の早春に、河合玉堂は秩父の長瀞(ながとろ)にスケッチ旅行に出かけ、川下りを楽しんでいます。その風景をもとに、小雪のように舞い、流れる桜の花びらをあしらったのがこの「行く春」です。玉堂は繰り返し同じリズムでまわる水車に特に興味を覚え、その動きを再現し伝えるために、川の水が勢いよく流れ下る様を表現するのに最も苦心したと言います。自然の雄大さと激しさも併せ持つ表情、季節の移ろいの繊細さとはかなさ、そしてその中で生きる人々の生活。玉堂の目はそのあわいの姿を切り取り、詩情豊かな情景を再現しています。出典:This is Media
彩雨 1940年
絹本彩色、東京国立近代美術館 蔵
水車を打つ流れの音と彩られた紅葉を遠く叩く雨音が呼応して聞こえるようだ。玉堂は四条派と狩野派を学んで独自の温和な風景描写を確立した、近代日本画史上忘れられない画家といえようが、この作品に見られる自然と画家との親密な関係こそ、その画業を支えるものであった。この作品が発表されたまさにその月に大政翼賛会が結成されるという世情不安の中で、ひたすら自然美とそこに生活する人々にむけられる画家のまなざしは、日本人への慰藉にみちている。 出典:文化遺産オンライン
二日月 1907年
絹本彩色、東京国立近代美術館 蔵
二日月は三日月が出る前の月のこと。
玉堂があくまで狩野派の伝統をふまえた線描を基本としていたことは、この作品からも見て取れる。その上で部分的ににじみも生かしながら情感ある四条派の画風を折り込んで、秋のタ幕れの澄んだ空気を活写しているのである。東京勧業博覧会に出品され、一等賞を受賞した。 出典:文化遺産オンライン
河合玉堂の作品は、雄大な日本の自然を描きなからも、そこに常に人間との交わりがあります。大自然の中で生きる人間の強さと知恵を表し、また融合することへの大切さが伝わってきます。自然も人間も、生きているものは何一つ同じものはないということも細かい描写から感じ取れます。
川合玉堂の家族
河合玉堂は、父親 河合勘七、母親 かなの長男として生まれました。
父親は玉堂が18歳の時、不慮の事故で死亡したので、家財を売り京都を離れなければなりませんでした。
また母親は、20歳位のときに急性肺炎のため死亡。
同年に、親戚の大洞富子と結婚しています。
玉堂には4人の子供があり、長男 真一、次男 修二、三男 圭三、長女 国子。
どのような家庭であったかの情報が分かり次第、追記します。
孫は玉堂美術館の館長
河合玉堂の孫に当たる小沢萬里子氏は日本画家で、玉堂美術館の館長です。
小澤萬里子氏は晩年の病に臥せっていた玉堂との思い出を西多摩経済新聞のインタビューで以下のように語っています。
昭和32年2月、心臓発作を起こし、自宅で医師の往診を受けながら病臥(びょうが)していた。初めのうちは、再起してまた絵を描きたいと思っているのが察せられたが、6月に入ると実に淡々として、静かな境地に達したように見えた。いよいよ、となったころ、枕頭(ちんとう)には絶筆となった『船出』が立て掛けてあった。
某日、玉堂は回りの者に『この絵はお世話になったK先生に差し上げたいが、落款がまだだから起こしておくれ』と言い、2、3人で助け起こし落款を入れた所へ、当のK医師が入室され、驚いて『先生、何をなさっているんです。落款?とんでもない。絶対安静ですよ』としかられた。
玉堂は慌てず騒がず、いつもの笑顔で『ああ落款(楽観)もできないなんて、私もいよいよ終わりだな』と得意のジョーク。多分、そのころは何の未練もなく『あの世へ行っても描くぞ』と楽しみにしていたのではないかとさえ思えた。本当に素晴らしい一生でした。 引用:西多摩経済新聞
玉堂美術館
198-0174 東京都青梅市御岳1-75
電話 0428-78-8335 www.gyokudo.jp
数奇屋建築の名手吉田五十八氏の設計で、奥多摩の自然と見事に融合した美術館です。
展示作品は、15歳頃の写生から晩年の作品までの約300点を所蔵しており、奥多摩の自然に合わせ展示替えは年7回程行われているそうです。
旧河合玉堂別邸は有形文化財
川合玉堂が実際に創作・居住した建物が、現在富岡の歴史を語る地域資源として、有形文化財となっています。この別邸を夏冬の画室としてよく活用したといわれ、部屋から見える風景、周辺の人物や景色を描いた作品も多いそうです。邸内には、枝振りのいい2本の老松があったため「二松庵」とも名づけられました。
開園日 毎月1回(第1土曜日)
所在地 横浜市金沢区富岡東5-19-22
開園時連絡先 旧川合玉堂別邸 TEL:080-1241-0910