1950年ごろから約50年に渡り、横浜界隈で、顔を歌舞伎役者のように白く塗り、派手な服を着て歩いていた女性、この人がヨコハマメリーさんです。
メリーさんは娼婦で、終戦後進駐軍兵士相手に身体を売っていた「パンパン」を職業にしていました。
メリーさんの生き方は壮絶で、映画や本にもなりました。単なるコスプレおばあちゃんではなかったのです。
今回は、ヨコハマメリーの若い頃、なぜ娼婦になったのか、若い頃や彼女の生き方を調べました。
ヨコハマメリーの素顔とはどんなものなのでしょう?
ヨコハマメリーの若い頃
<引用元:https://hamarepo.com/>
メリーさんは、1921年に岡山県で生まれます。
実家は農家で、女4人、男4人のきょうだいの長女でした。
子沢山の家の長女とは、両親や弟妹の面倒を見なければいけず、子供の頃から忙しく大変な生活だったことが伺われます。
地元の小学校高等科を卒業後、貧しかったため中学校ではなく青年学校(小学校を卒業した勤労青少年に実業教育・普通教育・軍事教育を行う学校)に進学。卒業後は地元で女中奉公のようなことをしていたそうです。
地元の青年学校を卒業後、国鉄職員と結婚しまし。その後戦争が始まり軍需工場で働きに出るが、人間関係を苦に自殺未遂騒動を起こしました。
メリーさんの繊細さがわかりますね。きっと昔のことですから、パワハラ、セクハラ当たり前だったのでしょう。
そして、この出来事が原因で結婚からわずか2年で離婚。子供はいませんでした。
戦後は、関西の料亭で仲居として働きました。実はこの料亭は米軍兵士のための慰安所だったのです。江戸時代の吉原や待合茶屋のようなかんじでしょうか?
そこで知り合った米軍将校と恋に落ち、愛人となります。「将校のオンリーさん」呼ばれる、ひとりの男性に専属の女性でした。
彼に連れられ東京に来ますが、朝鮮戦争勃発後、現地へ赴いた彼は戦争が終結するとそのまま故郷のアメリカへ帰り、日本には戻らなかったのです。
まるで「マダム・バタフライ」のストーリーのようです。
アメリカ人の彼は、祖国に妻や子供がいたんですね。相手が既婚者とわかっていても、恋に落ちてしまうのは、ひとつの人間の悲しい性です。
ヨコハマメリーはナゼ娼婦になったの?
メリーさんは「戦争から戻ったら必ず戻って、一緒に暮らそう」と将校に言われていたので、その言葉を信じて待っていたのです。しかし、彼は戦争が終わっても帰ってきませんでいた。
1950年代半ば、30代だったメリーさんは横須賀へ移り、その後横浜へ。
かつて伊勢佐木町4丁目に「根岸家」という大衆酒場があった。ここは24時間営業で、いろんな職種の人たちが集まり賑わっていたのです。
メリーさんは、生きていくために、自分の体を売る術しか知りませんでした。
「レースのドレス、白いパラソルに扇、羽飾りのついた帽子」という姿で、その特異な姿からついたニックネームは、「皇后陛下」。けれど、メリーさんには服装だけではなく、ほかの人にはない品とオーラがあったそうです。当時はまだ薄化粧だったらしいです。
メリーさんは将校以上の人しか相手にしませんでした。それは、危険を伴う街娼でありながら誰の庇護も受けない一匹狼だったため、得体の知れない人を誘うより、安全だという計算があったのでしょうね。
ヨコハマメリーの死ぬまでの生き方
メリーさんは亡くなる2、3年前まで「柳屋」というお店で白粉を買っていました。
当時の「柳屋」のオーナーは、夜、同業者に追われていたメリーさんを助けるため「2Fにかくまい、泊めてあげたこともある」とか。
メリーさんは、派手な服装で金髪に髪を染めていたことも有り、目立ちすぎて、同業者にはよく思われていなかったのです。
アメリカ兵士が少なくなってきた頃には、日本人のお客も取るようになりました。しかし、メリーさんは、誰でもいいわけではなく、相手にする男性はメガネを掛けた、きちんとした身なりの、お金持ちそうな人にしか声をかけなかったそうです。
娼婦としての自分のプライドを貫き通したのですね。
しかし、生活は苦しくなる一方で、泊まる宿もなく、初めはラブホテルを転々としていましたが、やがてホームレスへ。
メリーさんは紙袋を持って、常に全財産を持ち歩き、知り合いのクリーニング店には、自分の衣装を預けていました。
そして、日本でエイズ騒動が勃発し、メリーさんは行きつけの美容院に来店を断られてしまったこともあります。
福富町のビルに住みつき、エレベーターガールとしてチップをもらい、生活している時もありました。
ちなみにメリーさんは、この時総入れ歯で、白内障を患っていました。
体にも大変無理が来ていたのだと思われます。
1995年の冬、メリーさんは横浜から姿を消して、故郷の岡山へ帰ります。
メリーさん74歳のときです。74歳まで娼婦をしてたなんて凄いですね。それもホームレスです。横浜という土地に非常に強い愛着があったのではないでしょうか?
長年、メリーさんにロッカーを無料で貸していたクリーニング店の奥さんが体調を気遣って新幹線の切符を買い、故郷へと戻してあげたのです。
ずっと1人で生きてきても、信頼できる人が側にいたんですね。
メリーさんは故郷へ戻り、老人ホームで好きな絵を描いて静かに暮らしたようです。
そして、最後は2005年1月17日、心臓発作を起こし84歳での人生に幕を下ろしました。
まとめ
ヨコハマメリーの生涯は、今の私達とは全く違う激しいものでした。
生まれた時代風景にも大きく左右されているでしょう。
貧しい家に生まれ、教育もキチンと受けられず、戦後は娼婦として生きていくしかなかった悲しさを感じます。
しかし、そんな職業をしていても、意志を貫き、いつまでも白塗りと派手な服装でいたことは、ある意味、自分の人生をいきたのではないでしょうか?
ヨコハマメリーの生き方は、特異なものではありますが、私達が生きる上で学べる点が多々あったように感じます。