原三渓(原 富太郎)は明治、大正、昭和の実業家で茶人。
絹貿易で財を成し、美術品の蒐集家でもありました。
横浜の本牧にある「三渓園」は原三渓によって創り上げられたものです。
本記事では原三渓の家系を調べてみました。
経歴、学歴、両親、兄弟姉妹、妻、子供、孫、子孫などを見ていきましょう。
原三渓(富太郎)のプロフィール 経歴・学歴
本名:原富太郎 (はら とみたろう)旧姓 青木、号 三渓
生年:1868年10月8日
没年:1939年8月16日 享年70歳
出身地:岐阜県岐阜市
学歴:早稲田大学
原富太郎は儒学者の野村藤陰や草場船山に学んだあと、早稲田大学で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師となります。
横浜の豪商・原善三郎の孫であり、教え子であった原屋寿(はら やす)と結婚し、原家に婿入り。
横浜市を本拠にして絹貿易で財を成し、1920年、52歳で横浜銀行の頭取になり、関東大震災後は私財をなげうって復興に尽くしました。
日本美術の収集、三溪園の造園、院展の画家や彫刻家に対する援助も行い、実業家というだけではなく、日本を代表する文化人として大きな存在感を示した人物です。
原三渓の両親・兄弟姉妹
原三渓は、庄屋を営む青木久衛の長男として生まれました。
青木家は、現羽島郡柳津町の代々加納藩の名主庄屋を務めた旧家で、父 久衛は村長として郷土のために尽くし人望も高かったそうです。
子供の頃から聡明であり、4歳で百人一首を諳んじることができた富太郎に、おしみなく学問の場を与えました。
母親 琴は南画家 高橋杏村(たかはし きょうそん)の娘で、富太郎は上京する前まで、琴の兄弟 叔父たちに日本画を習っていました。
富太郎は両親思いで、横浜で成功してからも故郷の父母によく手紙を書き、明治天皇から、恩賜として御盃と縮緬壱練をいただいたとき、その縮緬で羽織をつくり、父母に送ったこともあります。
富太郎の9人兄弟の大家族でした。
なかなか子供ができなかった青木夫妻に、長男 富太郎が生まれたこときっかけに、長女 ますゑ、次女 とめ、三女 えい、四女 てい、次男 武雄、五女 いくゑ、三男 勇、六女 まさこと次々と子が生まれたといいます。兄弟姉妹は皆美しく賢かったそうです。
原 富太郎の妻
1891年6月13日、横浜屈指の財閥 原善次郎の娘 屋寿(やす)と結婚します。富太郎 23歳、屋寿 18歳のときです。
富太郎が在学中、跡見女学校(現跡見学園)の歴史の教師をしていたとき、屋寿は教え子でした。道端で屋寿の下駄の鼻緒が切れたとき、富太郎がすげ替えてあげ、二人はすぐに恋に落ちたそうです。かなりベタな出会いですが、明治の浪漫を感じます。
しかし、原善次郎は生糸貿易商として、東京の渋沢栄一などと並ぶ実業家であったので、田舎の村長の息子が婿になることに、大反対していました。そこで、皇族、財閥や文化人とも深いつながりがある跡見女学校創立者の跡見花蹊が、二人の結婚を強く推薦したのです。
原善次郎は渋々富太郎に会いますが、そこで富太郎の落ち着いた物腰や誠実な態度、学識の豊かさに感服し、逆に頭を下げて「娘の婿になってほしい」と頼んだというエピソードが残っています。
妻 屋寿は逆玉の輿にのった夫が冷たい目で周囲から見られないように、いつでも傍に寄り添って夫をサポートし、骨董品の収集にも協力的で二人で東京の骨董市場も度々訪ねた良妻でした。
原富太郎の子供・孫・子孫
富太郎が24歳のとき長男 善一郎が生まれます。善一郎は高校時代、芥川龍之介と同級生でアメリカ留学の経験もあり、原合名会社の副社長に就任しますが、脳溢血で45歳で他界。父 富太郎より早い死でした。
次男に良三郎、長女に春子がいます。孫の恭二郎も徴兵され、早い死をむかえています。
曾孫に、ホテルニューグランド会長だった原範行氏(養子)がいます。
原富太郎のまとめ
原富太郎(三渓)は実業家、古美術コレクター、茶人、社会文化貢献と非常に忙しい日々を送っていながらも、家族を大変大事にしていたそうです。
自分より早く亡くなった長男や親族への悲しみは非常に大きく、その時から健康が衰え始めました。
1939年、自宅三渓園で逝去するまで、枕元に山水画を置き美術を愛好して、葬式には、一切の香典供花を断り、棺には邸内で咲く蓮の花だけで埋め尽くされました。
原富太郎は、横浜市の久保山墓地の原家墓所に埋葬され、三渓園から約4キロほどの場所にあります。