昭和の時代に、明るい歌謡作品を発表し多く人に愛唱されている作曲家 古関裕而(こせき ゆうじ、 1909年 – 1989年)。
NHK連続テレビ小説「エール」のモデルにもなっていますが、フィクションなのでやはり実際の古関裕而の家族よりずっとドラマチックになっています。
ここでは古関裕而の家族をみていきましょう。
両親や兄弟姉妹、結婚した妻や子供、孫はどんな人達なのでしょうか?
古関裕而の両親 父親・母親
古関裕而は、福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。福島市内での大店で、番頭から小僧まで十数人の使用人が家に居たようです。
父 三郎次は音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていました。それで古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していくことになりました。
家業を継ぐべく商業高校へ進学しますが、喜多三は倒産してしまい、叔父が経営する銀行に就職しながら音楽の勉強をしていました。
母 ヒサは福島県川俣町で味噌や醤油を醸造する資産家の娘でした。
古関裕而の兄弟姉妹
古関裕而には、5歳違いの弟の弘之(ひろし)がいます。
戦時中の1945(昭和20)年に高野サタさんと結婚。
弘之は東京のガラス工芸会社に就職したが、1944年の母の死去を契機に福島市に戻って県職員になりました。すでに両親が亡くなっていたので、兄である裕而がサタの実家に出向いて結納金を届けた逸話が残っています。
古関裕而の結婚した妻 金子
古関は、1929(昭和4)年に、作曲した「竹取物語」が英国の国際コンクールで入選しました。それがきっかけで、金子と文通が始まり、三ヶ月後には結婚。文通ではかなり熱いラヴレターが交換されていたようです。
金子の父親は愛知県で蹄鉄工場を営むかなり裕福な家で、彼女は宝塚歌劇団を目指して声楽の勉強をしていました。オペラでの評価は高かったものの、子供ができてからは育児に専念し、その後は詩や絵画などを発表しています。
古関裕而の子供
古関裕而・金子夫妻には、3人のこどもがいました。長女の雅子、次女の紀子(みちこ)、長男の正裕です。
長女 雅子
1932年生まれ。夫は、聖マリアンナ医科大名誉教授を務めた染谷一彦です。その縁で、古関は同大の校歌を作曲しただけでなく、同大の病院で最期を迎えています。
次女 紀子
1934年生まれ。堅実にお見合いで結婚しています。
当時としては晩婚だったそうで、結婚するまでは非行青少年の更生をめざすBBS運動に加わり活動をしていたとか。
長男 正裕
1946年うまれ。著作家、音楽家。古関裕而音楽事務所代表。
高校のとき、音楽家になりたくて芸大を受けたいと両親に相談すると、母親は喜んでくれたそうです。しかし、父 古関裕而は「もう間に合わない、考えて作曲してるから、あれじゃあ一生は続かないよ」といわれたそうです。
それで、正裕は大学で数学を専攻し、卒業後、日本経済新聞社に就職し、安定的な道に進みます。
52歳で早期退職し、ブティックを始めた後、小説の執筆、音楽活動も再開。父の音楽の魅力を伝え、CD全集を企画・監修。2009年、このCDの企画監修で日本レコード大賞の企画賞を受賞しました。
古関裕而の孫
正裕は直子と結婚し、長女の幸子さんが誕生。裕而は、この内孫に、早速『幸子の子守唄』を作るほどの溺愛ぶりだったそうです。
金子と直子の間で、孫の教育をめぐり、嫁姑問題が起きてしまうほど可愛がられて育ちました。