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平塚らいてうの恋人、夫、子供は?家族や子孫を紹介。「若いツバメ」は『青鞜』から。

大正・昭和期の評論家、婦人運動家の平塚らいてう(ひらつか らいちょう、1886−1971)。

第1次世界大戦後、市川房枝らと新婦人協会を結成し、平和運動や女性解放運動に尽力をつくしました。また、女性ばかりで雑誌『青鞜(せいとう)』を発刊し、事実婚を公にするなど、当時の女性の地位向上、社会の風潮に立ち向かう活動をしていました。

そんな新しい女性の立場を築いた平塚らいてうの家族はどんな人達だったのでしょうか。ここでは、らいてうの恋人、夫、子供、両親や子孫をエピソードを交えながら紹介します。

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平塚らいてうの両親・兄弟姉妹

らいてうは、1886年(明治19年)2月10日、東京府東京市麹町区土手三番町(現:東京都千代田区五番町)にうまれました。

3人姉妹の末娘で、本名は平塚明(ひらつかはる)。

父、平塚定二郎は関ヶ原の戦いで戦死した西軍の武将平塚為広の末裔。明治政府の高級官吏で、会計検査院に勤務し、一高の講師も務めました。らいてうが25歳からはじめた婦人月刊誌『青鞜』について、父親はとても憤慨していたといいます。著述物の内容は、しばしば官憲の目につけられ、発売禁止や厳重注意が発せられるようになっていたからです。

父親は1年半欧米を視察巡遊したこともあり、らいてうの幼少期はハイカラで自由な環境で育ちました。しかし、富士見尋常高等小学校に入学してまもなく、父は従来の欧米的な家風を捨て去り、国粋主義的な家庭教育を施すようになってしまったようです。

母・光沢(つや)の両親は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の夫婦養子として育ちました。

母の方はやはり女性であるため、青鞜社の資金を娘明の結婚資金を切り崩し、援助しました。母は古風な従順な女性であったそうですが、新しい時代に生きる新しい女性の存在確立が必要であると感じていたのでしょう。

右から母、らいてう、祖母、義兄、父、姉、祖母の両側は姉の長女と次女  引用元:https://1000ya.isis.ne.jp/1206.html

平塚らいてうの恋人 森田草平とのスキャンダル

森田草平は文学者で夏目漱石の弟子の一人でした。

らいてうの処女小説「愛の末日」を森田が高く評価する手紙をらいてうに送ったことがきっかけで、二人は恋人同士になります。

森田草平  引用元:https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201707030000/

1908年 4つ年上の森田と22歳のときに初めてのデートをしますが、それが心中事件となって世間を騒がせます。初めて二人だけのデートでいきなり心中とは、、、。

森田は当時、「芸術家は美しく死ねべき」と心中に憧れていたようです。女性問題はたびたび起こしており、高校時代は女性との同棲が発覚して放校され、郷里の岐阜で結婚してからも不倫をします。また、漱石の門下に入ったときは、妻子をおいてでてきてしまい、恋愛のトラブルメーカーでした。

ですから、らいてうとの恋も単なる不倫のひとつであり、心中をそそのかしたのも本気ではなかったのです。ふたりは2月に栃木県の塩原温泉に行き、一ヶ月以上してから、塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で救助されます。

らいてうの官僚の父が捜索願いをだしていたので、無事保護されましたが、新聞には顔写真まで載って、面白おかしくスキャンダラスな記事が載りました。これは「塩原事件」または「煤煙事件」と呼ばれています。

事件の後、夏目漱石と馬場胡蝶は平塚家に対し、草平とらいてうの結婚を申し出ましたが、らいてうは結婚などとは全く考えていなかったとのこと。

こういう男の意気地のなさ、恋愛を単に夢想する子供っぽさに、らいてうがあきれてすっかり気持ちが冷めてしまうという女心はよくわかる気がします。

らいてうの内縁の夫 若いツバメ

平塚らいてうの姉は、茅ヶ崎市の南湖院で療養生活をしていました。それで、らいてうは、しばしば茅ヶ崎を訪れ、同じ南湖院に入院していた画家の奥村博史と知り合います。

らいてうと奥村  引用元:https://ameblo.jp/bomber1862/entry-10587580224.html

奥村博史(1889-1964)は、 大正、昭和時代の洋画家。
日本水彩画会研究所に学び、のち油絵に転向しました。大正3年二科展で「灰色の海」が入選。指環の制作者としても知られ、昭和8年工芸部門で受賞し、国画会会員となっています。

1912年、らいてう26歳のとき、夫婦別姓で事実婚をし、茅ヶ崎に部屋を借りて住んでいました。奥村は肺結核で何度も入退院を繰り返しています。しかし、茅ヶ崎は「自分たちの愛のふるさと」と言うほど、ふたりにとって、思い出深い街になりました。

奥村はらいてうより5歳若く、彼が後にらいてうに別れの手紙の中で、ツバメが飛んで来てまた別れて行くことに触れました。これを、らいてうが『青鞜』上で発表し、流行語になり、女性よりも年下の男性の恋人を「つばめ」と言う語源となりました。

芸術家、年下の恋人、肺病、海辺の街、と大正ロマンたっぷりの大恋愛のようにみえますが、らいていの心底には女性解放という大きな志があったので、恋に溺れてしまうこともなかったでしょう。

一方奥村は、芸術家肌のナイーブな青年でした。裕福な家庭に生まれ画家になるのを反対されながらも芸術の道を選び、何度も中国旅行にでかけています。二科展に入選しても個展以外ではあまり作品を発表せず、どの団体に所属するのも好みませんでした。らいてうと別れてからは、武者小路実篤の「新しき村」のメンバーになり、再婚はしませんでした。らいていとの別れも、自分がいなかったら、らいてうの生活を崩さなかったと自負の念も感じ取れます。

奥村博史作 子供の顔 1919  引用元:https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=190403

らいてうの子供

奥村との間に二人の子供をもうけます。

長女 曙生(あけみ、1915年うまれ)、長男 敦史(1917年生まれ)らいてうは従来の結婚制度や「家」制度をよしとせずに、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れています。

引用元:https://www.taiyonosato.co.jp/nankoin-history/

らいてうの子孫

らいてうの子どもたちは結婚し孫、ひ孫がいます。孫である何人かの方たちを紹介します。

奥村直史

引用元:https://www.jwu.ac.jp/st/grp/raiteu/event08_20121201.html

1945年東京都世田谷区生まれ。1968年早稲田大学第一文学部哲学科心理学専修卒業。国立精神・神経センター国府台病院に心理療法士として勤務。以後、東洋学園大学非常勤講師、千葉県浦安市メンタルヘルス相談員等を経て、現在、千葉県市川市南八幡ワークス心理相談員。「平塚らいてう〜孫が語る素顔」を2011年に上梓しています。

築添正生

引用元:https://sumus.exblog.jp/13084293/

彫金作家。2011年に遺稿集『いまそかりし昔』が出版されています。

築添正生の作品 引用元:https://tobiranorabbit.hatenablog.com/entries/2015/01/10

炎美可 (築添美可)

ヌードダンサー炎美可として日劇ミュージックホールでデビュー。アングラ劇団「黄金劇場」に所属し、ドラマ「熱中時代」にも出演したことがあります。

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平塚らいてう「新しい女」

平塚らいてうが「新しい女」と呼ばれるのは、事実婚やシングルマザーとしての生き方も大きな要素となっています。しかし、事実婚や認知されない子供を女性が育てていたのは大昔からあったわけです。やはり、らいてうが社会に大きな影響を与えた女性で、なおかつ正式な結婚をしなかったため、「新しい女」の称号をあたえられたのでしょう。

らいてうは、女性地位の向上という大きな目的があって、不屈の精神で人生を歩んできたわけです。以前のように女性が家庭の中だけで努力しているだけではなく、社会を動かせるだけの力があるということを証明しました。そのために、一般的でない恋愛や結婚をしてきたのではないでしょうか。決して恋や愛に溺れることなく、自分のなすべきことを見極めて突き進んでいく人でした。

らいてうの人生をみていると、どんなことに対しても「情熱」と「継続」の重要性を感じ得ずにはいられません。女性は現代でも、家族への貢献が一番大事であると考えがちですが、「新しい女」とはひとつの熱い情熱を生涯持ち続けることなのだと思えます。それが、仕事、趣味、副業、もちろん家族であっても、その人の求めるものをまっすぐ追い求める姿勢を見習いたいものです。

https://shae-bear.com/archives/7816

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