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片岡球子の経歴・作品・展覧会。異色の富士山はゲテモノ?ドラえもんとの関係は?

昭和・平成時代に活躍した片岡球子(かたおか たまこ)氏。

47歳で日本美術院同人という遅咲きの女流日本画家でしが、独創的な構図と鮮やかな色彩には誰もが目を奪われます。

ここでは、片岡球子氏のプロフィール、学歴、経歴、賞歴を追いながら、富士山の作品や展覧会を見ていきましょう。また「ドラえもん」と関係はあるのでしょうか?

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片岡球子のプロフィール  学歴・経歴・賞歴

引用元:http://jptca.org/en/kataoka_tamako/

生年:1905年(明治38年)1月5日

没年:2008年1月16日 享年103歳

出身地:北海道札幌市

学歴:女子美術学校

岡山県から北海道に移り住んだ開拓民の両親のもとに1905年に生まれました。 幼い頃より絵画に興味がありましたが、第一次大戦後の職業婦人が増加した時期であり、医者を目指していたようです。

しかし18歳の時、周囲の勧めで東京の女子美術学校に入学。日本画の吉村忠夫に師事します。

吉村忠夫 1898-1952 

大正から昭和時代の日本画家。
松岡映丘に大和絵をまなぶ。文展,帝展,日展で活躍。正倉院御物研究家としても知られた。昭和13年映丘の没後、国画院を指導。また日本画院を創立して同人となる。引用元:https://artsandculture.google.com/asset/

当時、女性が画家の道を目指すとなると、日本画しかなかったようですでね。洋画はまだまだ斬新なもので、男性しか入り込めない世界だったようです。

卒業後は、横浜で小学校の教師として働きながら、画家としての活動を始めます。画家を職業とすることで両親から勘当されますが、活動を続けていきます。しかし、美術院の展示、帝展に出品をしますが、落選を続けて、「落選の神様」と呼ばれた時期もありました。

24歳の時、日本美術院の展示、院展に出品し、「枇杷」が入選を果たします。 けれど、同時に日本美術院に反対していた吉村忠夫からは、破門されてしまいます。これも日本画界の大人の事情というものでしょう。

でもこれで球子氏は院展での入選を続け、日本美術院の先輩である横山大観、小林古径、前田青邨らに認められていきます。 女性らしくない、構成とあまりにも大胆な色使いから、画風は「ゲテモノ」とまで呼ばれてしまいます。しかし、小林古径は「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ… あなたの絵を絶対に変えてはいけない…」と励ましたといいます。

 戦後の1946年、球子は日本美術院の先輩である安田靫彦に入門。

1955年には50歳に至って小学校教師を定年退職し、女子美術大学日本画科専任講師となります。1966年に愛知県立芸術大学で、日本画科客員教授。

50歳以降は、火山や富士山に興味を示し、全国を渡って多くの山の作品を描いています。 1966年に61歳となった球子氏は、ライフワークとなることとなるシリーズ「面構」を開始。

1989年には文化勲章を受章。女性画家の受章は上村松園小倉遊亀についで三人目で「日本三大女流画家」と称されることも。しかし、あまりにも画風が違いすぎますね。

100歳を迎えてから脳梗塞に倒れましたが、療養に努めながら現役を続けていました。2008年1月16日、急性心不全のため神奈川県藤沢市内の病院で逝去。

主な受賞歴

片岡球子の作品

引用元:https://www.japanese-painting.com/artist/tamako_kataoka/

引用元:https://www.pinterest.com/pin/695735842413897275/

引用元:https://www.japanese-painting.com/artist/tamako_kataoka/

引用元:https://www.mutualart.com/Artist/Tamako-Kataoka/F3CD37F9E8516811

引用元:http://www.sothebys.com/fr/auctions/ecatalogue/lot.607.html/2019/contemporary-art-hk0857

引用元:https://www.tokyoweekender.com/tag/kataoka-tamako/

片岡球子の展覧会・美術館

東京国立近代美術館 生誕110年 片岡球子展

片岡球子の作品がある美術館

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片岡球子とドラえもんとの関係は?

ドラえもんに出てくる「のび太くん」のママ玉子さんは、どうやら片岡球子氏をモデルにしているようにもみえます。

ママ玉子さんの旧姓は「片岡」。しかし、絵を描いていたのはスポーツマンとされるパパのび助さんのようです。

学生の頃は画家になるのが夢で、その腕も確か。小学生時代には全国図画コンクールで金賞を受賞した経歴があり、中学生時代には売れない貧乏画家の柿原(後に大画家として有名になった)に師事していた。

父の反対で美術学校への進学をあきらめかけたところを、とある富豪家がパトロンとなり、海外留学の費用を出す(更に娘を嫁にやる)と申し出ていたが、他者の財力で夢を叶えることに疑問を抱き、自分の力で自分の人生を切り開くことを決意し、申し出を断った。実際には夢を叶えることはできなかったが、これが玉子との出会いのきっかけになる。 出典:ウキペディア

ドラえもんが連載された頃は、丁度片岡氏の「富士山」シリーズが脚光をあびてきた時期と一致してますので、藤子・F・不二雄氏も絵画つながりで、片岡球子氏をモデルにしたかったのかもしれませんね。

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