パブロ・ピカソの最初の妻オルガは、悪妻であったと言われることが多い。
嫉妬深く強欲でピカソと離婚しようとはしなかったそうだが、それは世界的有名な誰もが知るピカソ側にたっての見解に過ぎない。
オルガは美しく繊細でありながら自分のはっきりとした意志を持つ女性であり、そしてまたどこにでもいそうな夫に尽くす妻だったのだ。
なぜピカソはオルガと結婚したのか、二人の結婚生活は最初から最後まで不幸だったのか、ピカソが多くの愛人をもちながら、最後まで法的な妻であったオルガには愛があったのだろうか。
ピカソとオルガの出会いはバレエ団「リュス」
Pablo Picasso and Olga Khoklova in Rome, 1917 引用元
オルガ・ホフロワは1891年6月17日、ロシア帝国の、現在はウクライナの町ニジンで生まれた。父親は陸軍の大佐で貴族。6人兄弟だった。
父親はオルガがバレリーナになることに当然反対したが、母親は内緒でバレエ教室に通わせてくれた。しかし両親とも娘がプロのバレリーナになることは望んでいなかった。それで家出をするように1912年、21歳のときセルゲイ・ディアギレフが指揮する革新的なバレエ団「リュス」に入団。
数年後には第一次大戦やロシア革命が起きるのだから、ヨーロッパを拠点としたバレエ団に所属したのは、オルガに先見の明があったのかもしれない。
1917年、ジャン・コクトーの招きで「リュス」の美術や衣装を制作していたパブロ・ピカソ。このバレエ演目「パラード」の リハーサルをしていたローマで二人は出会う。「パラード」は音楽:エリック・サティ、テーマ:ジャン・コクトー、振付:レオニード・マシーンと当時の新鋭アーティストたちで構成されていたが、今こうしてメンバーをみると実に豪華なメンバーである。
この古典バレエの枠から外れた「パラード」は 15分程度だったが、奇抜過ぎて場内は騒然となった。第一次大戦中の良識への挑戦として公演されたそうだが、なんとも楽しそうである。ピカソの衣装で、着ぐるみをきているよりも、ダンサーたちは動きを制限され、このバレエと呼べるのかどうかの公演は、軽蔑され賞賛された。軽蔑したのはディアギレフ反対派で賞賛したのは新鋭芸術家たちだ。サティは酷評された仕返しにお下品なことを宣い、裁判になり投獄された。
ピカソとオルガの結婚に愛はあったか
若く(といっても30半ばになっていた)精悍なピカソにオルガは一目ぼれ。「リュス」を退団し、そのままパリに居続けた。
ピカソは、悪友ギヨーム・アポリネールと共に誘拐までして熱愛したイレーヌ・ラグートと別れたばかりだった。その痛手もあって、ピカソのほうが踊っているオルガにすっかり参ってしまったという話もある。
しかしそれよりも、ピカソは中年になり自分の家庭が欲しくなっていたのだ。結婚して子供を持つことを願っていたときに、オルガが現れたのだった。
またこの時ディアギレフから、スラブの淑女には結婚するまで手を出してはいけない、と言われ、婚前交渉はなかったそうだ。これはピカソにとって大きなチャレンジであり、どうしてもオルガと結婚する情熱が沸き上がっていただろう。
二人はピカソの故郷バルセロナへ行き母親に会ったが、彼女はあまりいい顔はしなかった。息子の性格をよく知っていた母親は、どんな女性もピカソとは倖せになれないと、オルガに同情さえしたという。
オルガのヴィザの関係で二人はスペインに半年近く留まることになる。この間ロシア革命が起き、オルガは父と三人の兄たちを失う。母と姉妹はジョージア州に逃げ延びたが連絡の取れる状態ではなかった。
「リュス」を離れ、家族とも会えないオルガを支えるのはピカソだけになってしまい、オルガは彼に頼りきっていた。ピカソも彼女を慰めようとして、彼女の肖像を多く描いた。
ピカソが初めて描いたオルガの肖像はスペイン女性のように描かれている。この時期が二人にとってお互いを愛し合い、もっとも幸福な時だったに違いない。
OLGA KHOKHLOVA IN THE MANTILLA 1917 引用元
ピカソとオルガの不調和な結婚生活
1918年7月にパリのギリシャ正教会で、ジャン・コクトーとマックス・ジェイコブを立会人として結婚する。ピカソ37歳、オルガ27歳。新婚旅行はピカソのパトロンが持つベアリッツの別荘で過ごした。
実はオルガは結婚前に右足を手術した。結婚式の時でさえ、杖をついてヨロヨロと歩いていたという。歩くことはできるようになったが、完全に治ることはなくバレエをあきらめなくてはならなかった。
すでにピカソの絵はそれなりに売れて名が知られるようになっていたが、オルガは自分の伝手を使って上流階級に夫の作品を売り込んでいった。オルガに「私にわかるような絵を描いて」と言われて、キュビズムから新古典主義に変わったとされているが、顧客の趣味にも合わせていたのだろう。貴族のように歴史ある家系を持つ人たちは、現代美術より古めかしいスタイルを好むのだ。ピカソはますます名声と富を増やしていった。
1921年2月4日、オルガは通称「パウロ」という男の子を出産。それ以来、オルガとピカソの関係は悪化していったようだ。
オルガは必要以上にパウロに過保護に接し、ピカソの妻である名声を鼻にかけ、セレブな生活をスノービーに楽しんでいたように見える。そのことをピカソは芸術仲間たちに批判されると、オルガの上流思考を責めるようになった。
オルガの生まれ育ちはハイソなので、特にピカソと結婚してから気取り始めたのではない。上流マナーで育ってきたのだ。自由奔放なピカソは上品ぶった世界に合わせられなかったというが、ピカソもオルガの紹介で、ますます画家としての知名度が上がり裕福になっていったわけだし、セレブな生活を好んでいたのだ。彼の性格は「王様」である。贅沢が嫌いなわけがない。ピカソの友人は彼のブルジュア趣味をピカソ本人へ責めることはできず、矛先を妻に向けた。
責められるのはいつも弱者である。そしてピカソは友人たちの言葉にのり、まるでオルガが自分に悪影響を与えたかのようにふるまう。しかしこれはピカソが仲間からハブられるのを恐れただけでなく、オルガに飽きてきた兆候だ。自分の芸術の進化のために、女性に恋するピカソは、また新しいスタイルを探し始めたのであった。
1922年の夏、二人がディナールのリゾートに滞在している間に、彼女は病気になり、緊急手術のためにパリの病院に運ばれた。この婦人科の病気はオルガの人生を最後まで苦しめた。
1923年の夏の終わりまでには、ピカソのオルガへの愛はすっかり冷めてしまった。売春宿に足繫く通うようになり、彼は自分のアパートの上の階をアトリエにし、誰も入れることはしなかった。
オルガが婦人科の病気であれば、最後の愛の絆の肉体関係さえ結べなかったであろうから、破局になるしかないだろう。恋に落ち結婚までしたが、たった5年で終わってしまった。
ピカソの愛人とオルガの絶望
そして1927年 ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ウォルターに出会い、シュルレアリスム時代が始まる。痩せて容色は衰え病気のために笑顔も少なくなったオルガと暮らしていたピカソは、マリー・テレーズの若く健康的なはちきれんばかりの肉体が、さぞかし魅力的に見えただろう。
はじめのうちはオルガにマリー・テレーズの存在を隠し、良き家庭人を演じていたようだ。そしてオルガの病気が悪化し、何カ月も入院していたときは、この新しい愛人とずっと一緒に過ごしていた。家族旅行でリヴィエラに行った時も、こっそりマリー・テレーズを呼び寄せていた。
不思議なことだが、偉大な芸術家たちは殆ど妻との旅行に愛人を呼び密会している。芸術家としての風習なのであろうか?彼らの妻たちだって、夫の愛人が来ていることを知らないはずはないのだが。
もちろんオルガもマリー・テレーズの存在に気づいていた。しかし、ピカソはもう有名な画家なのだし、愛人の一人や二人はいても仕方がないことと許していたのだ。
けれど、1935年のピカソの大規模な回顧展で「Large Nude in a Red Armchair」を発表したときに、彼女は愕然としてしまった。大きく開けた獣のような歯を見せ、折れ曲がった手足に、左右に分かれた乳房、だらしなく肘掛け椅子に座り、手術の傷跡までつけている。ピカソの眼には自分はこんなに醜悪なものに映っていたことに憤りと絶望を感じた。
この5年後にマリー・テレーズを描いた同じ赤い肘掛け椅子に座った「Nude Woman In A Red Armchair」を見れば、ピカソの気持ちは一目瞭然である。いや、ピカソは自分のイメージを表現しただけで、悪意はなかったのだろう。
ピカソはオルガを手放さなかった
1935年、マリー・テレーズが妊娠していることを知ると、オルガはすぐに離婚申請をし、パウロと共に南フランスに移った。自立する力のなかった彼女は、ある程度の財産をもらって、次々と愛人を作るピカソから別れたかったに違いない。
ピカソは離婚するとオルガと財産を均等に分けなければならなかったので、離婚を拒否した。空のマッチ箱さえ捨てるのを嫌がるピカソが、自分の作品を半分も誰かに所有されるのを認めるはずがない。オルガが弁護士にピカソの財産目録を作らせたことが、彼を非常に怒らせ彼女を徹底して拒否した。しかし、離婚はしない。それほど嫌いな妻ならさっさと別れて、また新しい絵を描けばいいのにと思うが、一度ミューズであった女性を手放すことはしなかった。
1955年2月11日、63歳。 オルガは癌で亡くなるまで、名ばかりのピカソ夫人でなくてはならなかった。
オルガの人生は幸せだったか不幸だったか
唯一ピカソをふった愛人、フランソワーズ・ジローはオルガの容姿をこう語っている。「背が低く腰が曲がって足を引きずり、サーカスのポニーのような歩き方をしていた」
随分とひどいいいようであるが、当時フランソワーズは20代のピチピチだったので、50代のオルガを老婆と形容しても仕方ないかもしれない。若いときは自分も老いることを想像できないでシニアを冷たく見る。それにフランソワーズはトップの愛人の地位を築いていたので、憎むべきは正妻。自分の母親ぐらいの年齢の女性にも容赦なく毒舌だ。
しかし、フランソワーズがオルガを悪くいうのは、彼女とピカソが住んでいるアパートメントに執拗に訪ねてきたからだ。また展覧会や旅行にも二人の後をつけてきた。
オルガの最後はカンヌの病院で亡くなったのだが、これはピカソがカンヌに引っ越したので追ってきたからだった。
彼女の精神は蝕まれていった。
大好きなバレエはもう踊れない。病気はどんどん進行している。父や兄は亡くなり、母と姉たちとは連絡が取れない。あれほど愛してくれた夫は、新しい愛人を次々とつくり、今や毛虫を見るような眼を向ける。唯一の心のよりどころだった溺愛していたパウロは、夫の太鼓持ちのような存在になってしまった。これでは心が壊れても仕方ない。
カンヌの病院で死んでいく中、オルガは友人たちにピカソに会いたいと何度も懇願した。しかし、ピカソは来なかった。彼にとって妻は完全に過去のミューズであり、自分の芸術にはもう必要なかったからだ。
日に日に衰えていく頭脳と肉体で、オルガは何を夢見ていたのだろう。
夫が美しく気品ある自分の肖像画を描き、いつまでも愛してくれる。子供を育て優雅でまろやかな家庭を作る。ごく平凡な穏やかな人生を望んでいたことだろう。
オルガは女性として凡庸で当たり前な波乱のない結婚生活を送る一人として、人生を過ごしたかったに違いない。
オルガの最後が薄れゆく意識の中で、ピカソとスペインで過ごした二人の輝く未来を夢見ていた思い出で満たされていたことを願う。