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竹久夢二の妻と恋人たち。大正ロマンの美人が惚れ込む男の魅力。|芸術家の恋人たち

数多くの美人画を残しし、抒情的な画は「夢二式美人」と呼ばれん。大正ロマンを代表する画家 竹久夢二(たけひさ ゆめじ 1884年9月16日 – 1934年9月1日))。

美人画を描くだけあって、夢二は恋多き男性で、様々な女性とのお付き合いがあり、彼の創作に影響しました。

ここでは、竹久夢二の主な恋人たちや妻とのエピソード、その作品を楽しくみていきましょう。夢二はなぜこんなにもモテたのでしょうか。

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岸 たまき

引用元:https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/about/p02_fate.html

たまきは、数多くの女性の中で、唯一、夢二と法的に結婚した女性です。

1882年(明治15年)- 1945年(昭和20年)。

たまきは石川県金沢市味噌蔵町(現大手町)に生まれます。早稲田鶴巻の絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめ、たまきをくどいていたそうです。そして、2ヵ月後には結婚。1906年、22歳、たまき24歳のときです。たまきにとっては再婚です。彼女は、18歳のときに絵画教師と結婚して、5年後に夫がなくなりました。自立していこうと兄を頼って上京し、商売を始めました矢先に夢二に見初められてしまったのです。

たまきは「すごい美人」と評判が立つほど整った顔立ちをしていましたし、未亡人というのは男性にとって魅力があるものです。このとき、夢二は早稲田実業を中退して、駆け出し挿絵画家でした。彼がしつこく「結婚してくれ」と毎日懇願するので、面倒くさくなって結婚してしまったのでしょう。店に日参して彼女のスケッチを長い間描かれるのも迷惑なことだったでしょうね。

「夢二式美人画」はこの美しいたまきをモデルにしたことから始まります。

たまきをモデルにした美人画  引用元:https://yohak-u.net/?p=520

翌年には長男・虹之助誕生するも次の年 1909年には離婚。自立心が強いたまきと、女性には目のない夢二とでは結婚生活がうまくいくわけがありません。離婚してふたりはスッパリ別れたかというと、そこは男と女の仲。再び籍を入れることはありませんでしたが、同居と別居を8年間も繰り返します。次男・不二彦、三男・草一も生まれています。

離婚した年に、夢二の最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊し、ベストセラーとなります。

その後たまきの自活を助けるため「絵草子店港屋」を開き、夢二がデザインした版画、千代紙、便せん、封筒、団扇、風呂敷、帯、浴衣、手拭い、絵本などの生活雑貨を販売し、たいそう繁盛しました。

たまきと絵草紙店港屋  引用元:http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_cc3e.html

港屋絵草紙店  引用元:http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_cc3e.html

当時画学生だった東郷青児は、「港屋」で夢二の絵の写しを描いたり、店の品物の入荷などの手伝いをしていた、若者のひとりでした。

しかし、この一回りも若い東郷とたまきの不倫の噂が立つようになりました。夢二は他の女性のところに入り浸っている状態でしたが、嫉妬だけは人一倍です。たまきが晴れ着を着て出かけようとしていると、「男と会うんだろう」と罵倒して、着物を切り裂くこともありました。 すでに夢二は人気作家ですから、ピカソのように、すべての女性が自分に夢中になっていないと自尊心が許さなかったのかもしれませんね。

そして嫉妬はエスカレートしていき、旅行中の夢二はたまきに電報を打ちます。「昨夜お前が不義のちぎりを結んでいる夢を見た。もしお前にうしろ暗いところが無かったらこの電報を受け取り次第東京を立って新潟に来い」とのこと。もう完全に自分を見失ってます。これを受けたたまきは、わざわざ富山県の海岸まで夢二に会いに行くのです。興奮した夢二は、海岸で散々たまきを責め立て、たまきの顔を切ります。さらに、翌日もほんとうのことを言えと迫り、彼女の左腕を深く刺しました。嫉妬の鬼と化してしまったわけです。 この事件でたまきと夢二は2度と同居することはなくなります。

東郷は夢二の弟子の一人、おあいに片恋だったといいますから、実際にたまきと東郷が恋仲だったかは、わかっていません。しかし、東郷はかなりのイケメンでしたから、年が離れているとはいえ「大いなる眼の殊に美しき人」といわれたたまきとは、見た目お似合いのカップルだったと思います。

東郷青児  引用元:https://www.iza.ne.jp/kiji/life/photos/171104/lif17110409210005-p1.html

夢二はこの破局で、たまきへの執着はなくなりましが、たまきは夢二の晩年、結核で入院中に甲斐甲斐しく彼の世話をし、彼の没後も慕い続けたといいます。これは大和撫子の鏡のようにも思われますが、夢二を愛していたわけではないでしょう。
自分の三人の息子の父親であったことの義理や、夢二がパートナーがいなかったこと、海外進出もあまりうまくいかず若い頃よりも勢いがなくなっていた同情ではないでしょうか。そして、なによりも情熱的に恋はできても、本当の愛を知ることができなかった男への哀れみであると感じます。

笠井ヒコノ 彦乃

夢二と彦乃 引用元:https://style.nikkei.com/article/DGXMZO93868980R11C15A1000000/

1896年3月29日 – 1920年1月16日。 享年25歳。

彦乃は、東京の日本橋の裕福な紙問屋の娘として育ち、女子美術学校の学生でした。この12歳年下の彦乃は、夢二の大ファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を何度も訪問します。夢二のことを憧れの人のように恋し、交際が始まってしまいます。昔の純粋なお嬢様にありがちのパターンともいえるでしょう。

しかし、このお嬢様、結構したたかで、妻たまきが東郷青児と不倫をしていると夢二に知らせたとか。たまきも負けじと、彦乃の親許を訪ね「わたしの夫のお嫁さんに娘さんを頂きたい」といった怖い行動をしたといいます。これが原因で、夢二は京都の旧友の元に身を寄せることになりました。もう、夫、妻、愛人のドロドロのメロドラマのようです。

彦乃の両親は夢二との交際を許すはずはありません。彦乃は、「日本画修業のため」と称して夢二がいる京都に赴き、一緒に暮らし始めます。この二人が同棲した家は、竹久夢二専門店となって京都府京都市東山区に現存します。

引用元:https://yumeji-minatoya.co.jp/hpgen/HPB/categories/18432.html

彦乃がモデルの美人画  引用元:https://store.shopping.yahoo.co.jp/seibidou-surprise/

彦乃は、1918年に九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病し、父親に連れ戻されます。 彼女は東京・御茶ノ水の順天堂医院に入院しますが、父親は断固として、夢二との面会を拒絶しました。残念ながら彦乃は夢二に会えずに短い生涯を遂げます。まるで身分違いの恋愛を絵にかいたようなつきあいでした。

夢二が一番愛した女性は彦乃であると言われています。それは、夢二が亡くなるまで手放さなかった指輪に、「ゆめ35しの25」(夢二がつけた彦乃の呼び名が「しの」)の文字が刻まれていることや、彼女への思いを綴った『彦乃日記』をのこしているからです。また彦乃の死後にできた恋人たちは、どこかしら彦乃に似ていたそうです。

彦乃の死後すぐに、彼女に似ていた女優の桜井八重子に恋文をだしているところをみると、結局外見が好きだったのかな、と疑いたくなります。しかし、彦乃との交際は親に反対されていたので、大きな障害があるほうが恋は燃え上がる、というパターンだったのでしょう。それに途切れなく、6年もの間付き合い続けたのは彦乃だけですし、情愛も生まれていたに違いありません。

佐々木カ子ヨ(かねよ) お葉

お葉と夢二  引用元:https://blog.goo.ne.jp/styles2011/e/bca22b68aa73bcdf4fd06f2e1337923b

明治37(1904)-昭和55(1980)年。

秋田県河辺町赤平境田に生まれで、12歳の時、母と二人で上京しました。母は納豆売り、カネヨは人形工場で働きますが生活は徐々に緊迫していきました。そこで、東京美術学校の人気モデルとなり、アイドル的な存在になります。

15歳まで「責め絵」の伊藤晴雨のモデル兼愛人でした。晴雨は、お葉が原因で離婚したと言われています。

彦乃が亡くなってからは、渋谷に所帯を持ち、のち夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住みました。

世田谷 少年山荘  引用元:https://ameblo.jp/crossfieldbio/entry-12539872985.html

お葉は息子 与太郎を生みますが夭折。夢二は自分の子供だと信じず、一度も抱き上げなかったといいます。12歳のときからヌードモデルをし、愛人をしていて、そのうえ、どの有名画家からも引っ張りだこだったお葉を信用していなかったのですね。

お葉は夢二の気を引きたいために、隣家の書生小原と家出をします。小原が好きだったわけではないのですが、小原は本気になり揉めてしまいました。お葉ほどの美人で雰囲気のある女性に誘われれば、ぞっこんになるのは当然でしょう。

引用元:https://mag.japaaan.com/archives/88425

お葉は彦乃の面影を追い求める夢二に苦悩し、悩んだ末に自殺未遂をはかります。夢二はお葉を哀れに思い入籍を考えます。しかし、当時、徳田秋声の愛人として有名だった山田順子と夢二は関係を持ち、お葉は半年後に別離します。

お葉は、貧しいためにまるで体を売るような、男性たちの翻弄される人生を送ってきました。夢二と付き合っているときは、彼の好みの立居振舞をし、まるで夢二の絵の中からでてきたようだ、と言われたそうです。(お葉のほうが絵よりもずっと美人ですがね)

彼女は夢二と別れた後、医師と結婚し、主婦として穏やかな生涯を過ごしたそうですので、やっと彼女の求める幸せを手にしたのだと思いたいものです。

夢二とお葉の関係は、きっと代替え人がきくような間柄だったのでしょう。お互いの芯を愛し合っていたわけではなく、二人共自分の人生にとっての「形」が欲しかっただけのように感じられます。

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竹久夢二がモテるわけ

引用元:https://www.town.kyonan.chiba.jp/site/hishikawamoronobukinenkan/2469.html

竹久夢二の恋人は星の数ほどいます。たいしてハンサムでもなかった彼がなぜこんないモテたのでしょうか。

現代の倫理観からいえば、複数の女性とつきあうような男性は価値がないつまらない男でしょう。中世であっても、舌の根も乾かないうちに次の恋人をつくるなんて、「尼寺へ行け!」と女シェクスピアに言われそうです。

しかし、この時代の芸術家たちは、恋をしていないといい作品が創れないという呪縛のような風習がありました。文学、美術、音楽のほとんどの有名男性人は、みだらに恋をしています。また、名士であればお妾さんの数人をもっていなければ、逆に社会的な信用を得られなかったそうです。

では、この時代の女性たちは、男性の地位や名誉や才能、経済力にメチャメチャ弱いだけで、簡単に恋をしてしまったのでしょうか。

この問いには、夢二の作品が答えを出しています。従来の容姿の整った眼を見張るような美人画から、彼は新しい境地をクリエイトしました。それぞれの画には、女性の色気を非常に感じますが、画面の女性は典型的な美人ではなく、日常を感じさせます。理想や妄想や幽玄の世界ではなく、現実的な女性の美です。

彼女たちは可愛らしくも強く、流れ行く時代に対応し、今を生きていながら女性であることを再認識させてくれます。夢二の作品は、すべての女性に、女性美を感じさせてくれるのです。そんな作品を作り上げる人物に、夢中のならないわけはないでしょう。

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