ドイツのダダ、シュルレアリズムの画家、彫刻のマックス・エルンスト(Max Ernst, 1891年4月2日 – 1976年4月1日)。
コラージュ、デカルコマニーなどの技法を駆使し、理論家として論文も多数書いて評価を高めた芸術家です。
ここではエスンストの妻や子供、恋人たちをみていきます。現代美術家として私生活も革新的な男性でありました。
エルンストは4回結婚しています。結婚と離婚の間には多くの恋人がいました。この(1)の記事では、最初の妻 ルイーズと2番めの妻マリー、そして短い期間でしたが恋人だったガラとレオノーラを紹介します。
エルンストの妻 ルイーズ・シュトラウス 結婚期間 1918-1927
ルイーズは1893年にケルンで帽子メーカーを営む家庭に生まれました。エルンストより2歳年下です。ボン大学で美術史、歴史、考古学を学び、そこでマックス・エルンストに出会いました。
第一次世界大戦中、1918年に結婚しましたが、両家にとって好ましい結婚ではなかったようです。エルンストが画家として独立しようとした一方で、ルイーズはボン大学で最初の女性美術史家として、博士号を取得します。彼女はケルンのヴァルラフリヒャルツ美術館でキュレーターとして活躍します。
1920年に息子、ハンスウルリッヒがいました。ハンスウルリッヒは、後に米国で抽象表現主義の画家としてジミー・エルンストとして知られるようになります。
家族は経済的に貧窮していたので、ルイーズはデパートの事務や売り子までしていました。しかし、エルンストはダダの活動に集中していましたから家庭を顧みなかったようです。
そしてエルンストはロシアの芸術家の妻ガラ(のちのダリの妻)に入れあげて、オーストリアで休暇を過ごした後、パリに単独滞在。
1927年にエルンストがケルンにいない間に離婚が成立しました。
34歳でシングルマザーとなったルイーズは息子を養うために、秘書や会計士などの仕事をして、ジャーナリストとして社会での女性問題を取り上げたりもしました。第二次世界大戦中にアウシュヴィッツに強制送還されて亡くなっています。
ガラ・エリュアール・ダリ
ガラ・エリュアール・ダリ(Gala Eluard Dalí、1894年8月26日 – 1982年6月10日)は、ロシア生まれで裕福なユダヤ人弁護士の父親がいました。
結核治療のために行ったスイスのサナトリウムで詩人ポール・エリュアールと出会い、1917年 23歳で結婚。娘を出産します。
ガラとエルンストはケルンで知り合い一気に恋愛関係になり、エリュアール公認の愛人となります。エルンストは妻子をおいて、パリのエリュアール邸に一緒に住みます。妻妾同居というのはこの時代、上流階級や文化人の間では特に珍しくもありませんでした。
ガラは若いアーティスト大好き女性でしたから、エルンストは愛人のひとりにすぎませんでした。しかし、エリュアールはエルンストのパトロンでもあり、離れることができなかったと思われます。この頃からエルンストはコラージュ作品を発表して、シュルレアリストとしての地位を高めていきます。ある程度エルンストの経済状態が安定してくると、ガラはあっさりと彼をふり、ダリと恋に落ち、結婚します。
ガラは生涯、若いアーティスト好きでしたし、ビジネスの才もありましたから、誰にとってもファム・ファタルであったのでしょう。どんなアーティストも彼女の前にはひれ伏すという凄腕の女性でしたから、元妻ルイーズに、興味がなくなってしまったのも仕方がないことだと思われます。
エルンストはガラと別れてから、悲しみいっぱいで、マン・レイの写真を模写した、妖婦ガラの瞳を思わせるこの作品を制作しました。
マリー・ ベルト・オーランシュ 結婚期間 1927−1936
1927年、最初の妻ルイーズとの離婚が成立すると、同年に21歳のマリー・ベルト・オーレンシュと結婚。
マリーは1906年生まれの10歳年下。映画作家ジャン・オーレンシュの姉でした。シュルレアリズムの美術家で、マリーのほうがエルンストに夢中だったようで、しかし、この結婚も花嫁の父に反対されています。マリーの父は怒り狂って、二人の住むパリに押しかけますが、父の怒りを恐れて逃亡したというエピソードもあります。
ふたりはマン・レイと共同制作をすることもあり、この結婚の影響でエルンストのエロチックな作品も増えはじめます。また1934年からは彫刻も始め、ジャコメッティとも交流が始まります。
しかし、1936年には離婚。理由はマリーのあまりにも突飛な行動にエルンストがついていけなくなったこと、エルンストのあまりの贅沢にマリーが耐えきれなくなったこと、とされています。
マリーは離婚してから4年後に、画家チャイム・ソーティンと結婚しましたが、精神病を患い59歳で、自ら命を立ちました。
ちなみにマリーは、藤田嗣治とも交友関係があり何度もモデルになっています。
レオノーラ・キャリントン
引用元:https://ameblo.jp/makidom/entry-12342408060.html
幻想的、もしくはオカルトチックな作品を作り出すレオノーラ・キャリントンとエルンストは、建築家ゴーリドフィンガーのディナーパーティで出会います。
この時、レオノーラはまだ19歳、エルンストは46歳になっていました。
レオノーラはイギリスの裕福な商人の娘で、修道院会での教育が合わず、両親が社交界に出すためにイタリアの美術学校に入れました。芸術家になるのは両親が大反対していましたから、エルンストの付き合いも、勿論猛反対されました。毎回、エルンストは恋人の両親からのウケは悪いようです。この頃はエルンストは芸術家として有名にはなっていたのですが、素行の悪さが受け入れられなかったのでしょう。このときは、まだマリーと結婚していたのですが、ふたりはパリで同棲を始めます。
シュルレアリズムの画家であり小説をであるレオノーラは、エルンストとは互いに刺激し合いながら作品世界を深めます。1938年にはキャリントンの最初の短編小説『恐怖の館』がエルンストの挿絵入りで発表されました。
第二次世界大戦で二人の別れは訪れます。エルンストがゲシュタポに逮捕され、彼を救えるのは米国に亡命させてくれる、のちに結婚するペギー・グッゲンハイムだったのです。
レオノーラはショックで精神疾患を患いますが、スペインに亡命し、その後メキシコの外交官と結婚し、生涯メキシコシティで暮らし、94歳で亡くなります。
レオノーラの芸術人生から見れば、エルンストと別れて正解だったのではないでしょうか。彼女はメキシコで自分のアートを花開かせることができたし、家族も持てたわけですから。
引用元:https://www.artsy.net/news/
レオノーラがこの絵を描きあげたときに、すでに精神状態が不安になっており、翌年には、エルンストは新しい恋人ペギーと半同棲生活でした。1942年に、レオノーラはエルンストにこの肖像画を渡し、その後ふたりは二度と会うことはありませんでした。
エルンストの恋愛、結婚はまだまだ続きます。
参考:
https://de.wikipedia.org/wiki/Marie-Berthe_Aurenche https://planetstef.wordpress.com/2016/10/12/the-wives-and-loves-of-max-ernst/
https://en.wikipedia.org/wiki/Jimmy_Ernst