昭和、平成、令和と長期に渡って皇室ジャーナリストとして活躍する渡辺みどりさん。
美智子様をはじめとし、皇室関係者とも深い親交がある方ですが、渡辺さん自身の人生は波乱万丈のようです。
私生活では、父親が大物政治家でありながら、認知してもらえず母親だけに育てられました。
ここでは、皇室ジャーナリストの渡辺みどりさんのプロフィール、経歴、学歴を紹介します。また、父親、母親、兄弟姉妹、結婚した夫、子供など、家族についてエピソードを入れて見ていきましょう。
渡辺みどりのプロフィール 経歴・学歴
氏名:渡辺みどり (渡辺さん自身は旧字体 「渡邉」を使用)
生年:1934年
出身地:東京都
学歴:早稲田大学卒業
渡辺さんは大学時代はボート部で活躍し、早稲田大学卒業後、日本テレビ放送網に入社してテレビ番組の制作に携わります。
1959年、4月10日の皇太子(上皇明仁)成婚記念パレード中継で、美智子さまの聡明な笑顔をアップで捉えることに成功したのをきっかけに、皇室報道に携わるようになりました。
1980年、ディレクターとしてドキュメント番組「がんばれ太・平・洋─三つ子15年の成長記録」(1966年から25年間制作)で、日本民間放送連盟賞テレビ社会部門最優秀賞受賞。
1984年(昭和59年)にチーフ・プロデューサー、昭和天皇崩御特番で総責任者を務め、報道局エグゼクティブ・プロデューサーとなります。
1990年日本テレビを退職し、フリーの皇室ジャーナリストとして活動。
1995年『愛新覚羅浩の生涯』(読売新聞社)で日本文芸大賞特別賞受賞。
最新著書では、『イギリス王室 愛と裏切りの真実』があり、日本だけでなくイギリス王室についての本も出版されています。
渡辺みどりの父親 古屋亨(ふるや とおる)
生年:1909年1月6日
没年:1991年6月20日 享年82歳
出身地:岐阜県
学歴:東京帝国大学法学部
警察官僚から衆議院議員に転出し、中曽根政権下で自治大臣、国家公安委員会委員長などを務めた内務・警察官僚。初代の内閣官内閣房調査室長で、総理府総務副長官。退官後は弁護士として活躍。
古屋氏が25歳のとき、みどりさんは生まれますが、母親とは結婚しなかったので、庶子となります。これは古屋家が秋田の旧家で、当時看護師をしていた母親との結婚を許さなかったからです。みどりさんはその事実を幼い頃から知っていて、学校では「お妾さんの子」と言われいじめにあったこともあるそうです。
古屋氏はみどりさんと全く親子関係をもたなかったわけではなく、公然の秘密といったかんじで、官僚仲間の紹介したり、みどりさんの結婚式に出席したりしていました。
古谷氏が認知しないことをみどりさんは長い間黙認していたのですが、苦労して日本テレビに内定させた男性に、古屋氏が政治的圧力をかけ取り消しにしたのをきっかけに、認知訴訟を起こしました。みどりさんは勝訴し、古屋氏の子として認知されました。この時みどりさんは、57歳、古屋氏は亡くなる4ヶ月前の82歳でした。
渡辺みどりの母親 渡邉貞
貞さんは秋田の出身で、東京で看護師をしていて、古屋氏とダンスホールで知り合いました。みどりさんが生まれても、結婚を承諾しない古屋家から慰謝料をもらいその資金で、赤坂区青山に看護師を派遣する感が深いを1938年に設立しました。
貞さんは「青山の宋美鈴」と言われるほど美人で働き者でした。また、みどりさんの教育に非常に熱心で、看護師会を継ぐよりも違う道を進められ、早稲田に入学したそうです。
貞さんは、がん性腹膜炎のために54歳の若さで亡くなっています。みどりさんはこのとき27歳で、たいそう心細かったと思います。
義理の弟に衆議院議員の古屋圭司さんがいます。圭司さんは古屋氏の甥であり養子にはいっています。
著書『かくし親』は、出生の秘密とキャリアウーマンとして先駆的な生き方をした渡邊みどりさんの半生を描く自叙伝です。
渡辺みどりの夢は?
渡辺みどりさんは、結婚をしましたが、10年で破局をむかえ、その間2度も流産しています。もし、令和の時代に生まれたら、子供を持ち温かい家庭を持ちたいとインタビューで語っていました。
日本テレビに33年間在籍した後、文化女子大学の教授を22年間務め、現在はフリーの皇室ジャーナリストですが、脊柱管狭窄(せきちゅうかんきょうさく)症と第二腰椎(ようつい)圧迫骨折で毎日、強い痛み止めを飲みながら、働いているようです。
働く女性の先駆者とした第一線を活躍してきた渡辺みどりさんは、現代の憧れの女性です。しかし、実際は仕事も私生活も常に戦場であったように思われます。平凡に結婚して子供を産み育てたかったと願う渡辺さんは、真の女性らしさを感じますし、誰もが手に入れやすい夢が叶わなかったことに、先駆者の人生の悲哀を感じ得ずにいられません。