早世の大正・昭和初期の日本画家 速水御舟(はやみ ぎょしゅう)。
それまでの日本画にはなかった西洋画技法のスーパーリアリズムを取り入れ、緻密絵画が評判をよび、その後は代表作「炎舞」のような装飾性や象徴的な画風となっていきました。
ここでは、速水御舟の作品・経歴・エピソード・展覧会や美術館をみていきましょう。
速水御舟のプロフィール 生い立ち・学歴・経歴・受賞歴
生年:1894年(明治27年)8月2日
没年:1935年(昭和10年)3月20日 享年40歳
本名:蒔田 栄一(まきた えいいち、後に母方の速水に改姓)
出身地:東京 浅草
1894年(明治27年)、質屋を営む蒔田良三郎・いとの次男として、東京府東京市浅草区に生まれます。
少年期は、負けん気の強いわんぱくでありましたが、すでに絵の才能を発揮して、自宅の襖に群鶏を描いていました。それを見た画家松本楓湖の執事が、安雅堂画塾に入門することを勧めたそうです。
松本 楓湖(まつもと ふうこ)天保11年9月14日(1840年10月9日) – 大正12年(1923年)6月22日)
歴史画を継承し、それを次代へ橋渡しした日本画家。しかし、師である菊池容斎の枠から出なかった画家と言われる。浅草の自宅に「安雅堂画塾」という私塾を開き、約400人とも言われる門下生を輩出した。放任主義で投げやり教育ではあったが、初心者には温情に富んだ指導をしたという。
14歳で画塾に入り、放任主義であったので、宋元古画、大和絵、俵屋宗達、尾形光琳などの模写したり、同門の仲間で団栗会を結成し、近郊を写生散歩して回っていました。
1910年(明治43年)3月の巽画会展に初めての展覧会出品。
翌年17歳で、巽画会展に『室寿の讌』(むろほぎのえん)を出品し、一等褒状を受け宮内省買い上げとなります。再興日本美術院展(院展)では、『萌芽』を、コレクターとしても知られる実業家の原富太郎(三渓)が購入し、これを契機として原から援助を受けるようになりました。
1919年、25歳のとき、浅草駒形で線路に下駄が挟まり、市電に轢かれ左足切断。
速水御舟はおとなになってからは、自分自身も他者も冷静に物事を捉え、常に明るく笑う観音のような眼を持つ人物だったと言われています。この時も、足を轢かれた本人が電車の遅延で乗客に迷惑をかけるので、電車を動かせ、といったエピソードも残っています。
39歳で、横山大観らと欧州に渡り、イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、オランダ、エジプトを周遊しました。ジョットやエル・グレコの絵に惹かれ、画風にとりいれていきました。
帰国後『名樹散椿』を出品し、イタリア政府よりオクイシェー・クーロンヌ勲章を受章、また、ドイツ政府より赤十字二等名誉勲章を受章しました。
日本画の将来の担い手として嘱望されていましたが、1935年に腸チフスを発病し、3月20日に40歳という若さで急遽しました。
速水御舟 代表作 「炎舞」
「炎舞」1925年(大正14)速水御舟/重要文化財
1925年(大正14年)31歳の夏、軽井沢に別荘を借り、一家で滞在していたときの作品です。
この頃、岸田劉生の影響を受け、写実的な様式の静物画を描いていて、従来の日本画にはみられない新しい作品を創っていました。
焚き火に群がる蛾を見て、絵の構想が浮かび、何度も蛾を捕まえては観察をしていたそうです。確かに蛾は本物と見間違えるほど細密に描かれています。しかし、この絵の主題は炎であり、仏画の炎の文様を思わせます。
羽を広げて飛んでいる蛾は静止しているようであり、デザイン化された炎は、速水御舟の思想、精神の象徴の表現だとされています。このあとの作品は動から静へと移行していき、モチーフや構図が卓越した新日本画への展開を見せます。
速水御舟の作品
速水御舟の展覧会・美術館
山種美術館
2019年に速水御舟生誕125年記念として、所蔵品の全点を公開する大規模な展覧会が開かれました。
山種美術館は速水御舟の作品はを、120点所蔵しており、別名「御舟美術館」とも呼ばれています。1970年代に、旧安宅産業コレクションの御舟作品105点を、銀行からの借り入れなしに所有していた土地、有価証券を売却し17億円で買い取りました。この出来事は、当時新聞などでも取り上げられ、大きな話題となりました。
御舟の代表作「炎舞」「名樹散椿」「牡丹花(墨牡丹)」を見ることができます。