19世紀後半から20世紀初頭まで続いたイギリスの「挿絵の黄金期」の画家のひとり、エドムンド・デューラック。
フランス人でありながらイギリスに帰化し、イギリスのフェアリーテイル画のスタイルの代表的作風となっている。
精密な描写と繊細な色彩はファンタジー語りを十分表現し、老尿男女すべての読み手の心を掴む。
エドマンド・デュラック フランス時代
1882年10月22日、フランスのトゥールーズの裕福な家庭に生まれる。大学で法律を学んでいたが、自分らしくないと感じアートの世界へと向かう。エコール・デ・ボザールの通い、すぐに才能を発揮しボザール賞を受賞する。パリのアカデミージュリアンでも学ぶが、当時
パリの主流は印象派とキュビズムだった。デューラックは、印象派のボヘッっとした締まりのなさや、キュビズムの従来の美の欠如に耐えられず、1904年にロンドンへ移る。
イギリスでは革命的な画風よりも、古典的な流れをくむ絵画が好まれていたので、ウオーターハウスなどに人気があったのだ。ウオーターハウスも神話の場面を良く描いていたので憧れもあったのだろう。
エドマンド・デュラック 「アラビアンナイトの物語」
デュラックは22歳でロンドンに住んでからすぐに、シャーロッテ・ブロントの「ジェーン・エア」の挿絵を依頼され、画廊とも契約ができる。
イギリス文化に魅了されたデュラックはこのときファーストネームの綴りを「Edmund」に変えている。
この時期印刷技術の画期的な発展により、カラーブックが経済的に市場に出回るようになっていた。そこで、豪華な挿絵が何枚も入っている「ギフトブック」が流行りだす。
その勢いに乗り、デュラックはアーサー・ラッカムと共に大人気の挿絵画家になる。
ブロントの小説の後は『アラビアンナイトの物語』(1907年)などの古典的な挿絵を手掛けた。
その後は、『眠れる森の美女とその他の童話』(1910年)や『ハンス・クリスチャン・アンデルセンの物語』(1911年)などの童話の挿絵も手がけた。
物語りの文章は凝ったフォントが使われ、各ページが金線で囲われたりしているものもあり、子供へは豪華な贈り物となる。どちらかといえば、大人が子供時代に聞いた話をもう一度読み返し、じっくりと物語りの中へ入っていける本であった。
「エドマンド・ブルー」と言われる青を基調とした仄暗さの中の登場人物たちは神秘的で、静かな場所でゆっくりと落ち着いて読みたい本と思える印象を与えた。
ロンドン滞在中は、ポール・モール・マガジンの常連寄稿者となり、ロンドン・スケッチ・クラブに入会していた。
ポール・モール・マガジン(The Pall Mall Magazine)は、1893年から1914年にかけて発行されていたイギリスの月刊文芸誌である。ウィリアム・ウォルドーフ・アスターがポール・モール・ガゼットの分派として創刊したこの雑誌には、詩、短編小説、連載小説、一般的な解説、そして広範なアートワークが含まれていた。それは、その時代に「同じクラスのアメリカの定期刊行物に匹敵する数と仕上がりのイラストを掲載した」最初の英国の雑誌として注目に値した。その多くはラファエル前派後期のスタイルだった。それはしばしば競合する出版物のストランドマガジンと比較された。イラストレーターのシドニー・パジェットや作家のH・G・ウェルズなど、多くのアーティストがフリーランスの作品を両者に売り込んだ。The Pall Mall Magazine – Wikipedia
戦後のエドマンド・デュラック
第一次大戦中は救済本に寄稿し、フランス赤十字のためにデュラックの絵本を出版した。またルーマニア王妃が書いた「The Dreamer of Dreams」にも挿絵を描いている。
「The Dreamer of Dreams」1915 引用元
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作品は年が立つに連れ、オリエンタリズムの影響が顕著に見られるようになる。初期のデュラックの挿絵との違いを感じさせるが、細部と色彩のバランスが絶妙である。
乙姫様が海岸に現れる「浦島太郎」の挿絵も描いていた。
浦島太郎 1916 引用元
戦後はギフトブックは珍しくなくなり、デュラックの挿絵画家としての大人気も下火になる。彼の最後の本は「真珠の王国」(1920年)である
The Pearl of the Talisman, from The Kingdom of the Pearl 引用元
その後のデュラックは新聞の風刺画、肖像画、劇場の衣装のデザイン、お菓子のパケージデザイン、切手などの商業アートの場で活躍する。
切手ではイギリスの1948年オリンピック記念、ワイルディング・シリーズがある。
1948 (29 Jul) Olympic Games Issue 引用元
デュラックの経済状態はギフトブック全盛の頃よりも落ちてしまったが、それでもイラストレーターと詩て活躍できいた。
しかし、心臓の発作を何度も起こしていたため、1953年5月5日に70歳で逝去。
エドマンド・デュラックの三人の妻
デュラックはフランス時代まだ画学生だった頃、33歳のアメリカ人、アリス・メイ・デ・マリーニと結婚。 デュラックはまだ20歳だった。が、年の差がありすぎたのか若さゆえの幻惑だったのか、一年足らずで別れる。(1903-1904)
ロンドンに移ってからはエルサ・ビグナーディと再婚。イタリアとドイツのバイレイシャルで恥ずかしがりやの女性だった。けれどエルサが知的でなく芸術面での話ができないという理由で10数年で離婚。だぶんこの離婚の前からインテリ女性ボークラークと付き合っていたのだろう。(1911-1923)
翌年、1924年、10歳年下のイギリスの作家ヘレン・ボークラークと結婚。ボークラークはフランスのファンタジー小説に影響され、デュラックは彼女の小説「The Green Lacquer Pavilion (1926)」 と「 The Love of the Foolish Angel(1929)」に挿絵を描いた。ボークラークはデュラックが亡くなる1953年まで一緒に過ごした。