放浪の画家として、ドラマや映画にもなった貼り画家の山下清(やました きよし)。
幼少の頃から、軽い言語障害、知的障害を患うも、「ちぎり紙細工」に出会い、芸術家としての才能を開花させます。
ここでは、山下清のプロフィール、経歴、学歴、賞歴を紹介します。
また作品の値段や美術館も紹介し、「日本のゴッホ」と呼ばれる所以や美しい花火の作品も見ていきましょう。
山下清のプロフィール 経歴・学歴・賞歴
生年月日:1922年3月10日
没年:1971年7月12日 享年49歳
出身地:東京都台東区日本橋
学歴:八幡学園
1922年 (大正11年)3月10日 大橋清治・ふじの長男として、浅草区中町に生まれる 。 3歳の時に重病を患い軽い言語障害、知的障害になる。
1928年(昭和3年) 浅草の「石浜小学校」に入学する。
1932年(昭和7年) 父が他界すると、母ふじが清を含む子供3人を連れ再婚する。
1934年(昭和9年) 千葉県の養護施設「八幡学園」に入園。 この頃から母の旧姓の「山下」を名乗る。「ちぎり紙細工」に感銘し、学園の顧問医を勤めていた精神病理学者・式場隆三郎から指導を受ける。
式場隆三郎 1898−1965
精神科医。医学博士。1936年千葉県市川市に精神病院である式場病院設立。白樺派の作家、柳宗悦、民芸運動者、バーナード・リーチなどと親交を持つ。また、1946年に日本ハンドボール協会が復活設立された際には協会会長に就任。
1938年(昭和14年)銀座「青樹社」での初個展で梅原龍三郎・ 安井曽太郎らの賞賛を受ける。
1940年(昭和15年)11月18日突然、 八幡学園を脱走し、放浪の旅を始める。理由は徴兵検査を受けたくなかったためと思われる。住み込みで働きながら、半年ごとに戻ってくるという生活だった。
1954年(昭和29年) 鹿児島にて放浪生活を終える。
1959年(昭和34年) ヨーロッパ9ヵ国を訪問する。
1960年(昭和35年) 全国名勝絵葉書コンクールに「新東京十景」 が選ばれる。 貼り絵の他・油絵・水彩画・陶磁器の絵付などの制作も始める。
1971年(昭和46年)7月12日49歳にて東京で脳出血のため逝去。
山下清の作品と価格
作品の価格はオークションで4万円から2800万円までになっています。
山下清の美術館
放浪美術館
住所:長野県茅野市ちの2764-3
電話:0266-72-9908
展示は、貼絵70点、 ぺン画15点、 油画1点、 石版画1点、工芸品80点と計170点あまりの作品を見ることができます。骨董品や民芸品なども売店で販売しており、ビーナスラインに行かれたときに、立ち寄ると楽しいでしょう。
日本のゴッホは花火が好き?
テレビドラマの「裸の大将放浪記」では、放浪先で絵を描いていますが、実際の放浪で山下は、ほとんど絵を描いていません。旅先で見た風物を自分の脳裏に鮮明に焼きつけ、実家や八幡学園に帰ってから自分の記憶によるイメージを描いていました。山下は映像記憶力が抜群で、見た風景を長い間覚えていられました。これは、山下がサヴァン症候群だったのではないかとも言われています。
作品は、実物よりも色鮮やかな画像で、貼絵制作は、貼り重ねる事により厚みと立体感を出し、細い線は「こより」にするなど山下の独自の技法といえましょう。
梅原龍三郎が山下清を高く評価し、「作品だけからいうとその美の表現の烈しさ、純粋さはゴッホやアンリ・ルソーの水準に達していると思う」といったことから、「日本のゴッホ」とも呼ばれています。ゴッホを知らない山下でしたが、鮮やかな色彩と、ゴッホの筆跡が貼り絵とマッチしていたからでしょう。
風景の中で、特に花火が好きだった山下は、全国の花火大会には足繁く通ったそうです。作品には、その彼の感動がとてもよく表現されていると感じます。