世阿弥(ぜあみ 正平18年/貞治2年(1363年)? – 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師です。
父の観阿弥(かんあみ)とともに猿楽(現在の能)を大成し、観世流として現代に受け継がれています。
世阿弥の能は「舞」の域にとどまらず、文学的、哲学的にも世界中で愛され注目されています。
ここでは、世阿弥の『風姿花伝』や名言の解釈について、また世阿弥のいう「花」は現代では何を意味しているのか考察してみましょう。
世阿弥の『風姿花伝』とは
『風姿花伝』は世阿弥が、応永7年(1400)から約18年かけて、子孫への庭訓として父観阿弥の教えを記述した能の伝書です。
7歳より 50歳頃までを7期に分けて稽古の仕方を論じ,物まねとして女,老,直面,物狂,法師,修羅,神鬼,唐事に分けて述べ,演能の注意,芸の工夫を追求をあらゆる角度で書いています。
通称『花伝書』とされ、人生訓としても、現代でも充分実用的な、価値ある書物です。
世阿弥の名言
秘すれば花
概訳は、人の心を動かすものは隠しておくものだ、ということですが、この有名な名言には多くの解釈があります。
「他人に隠しているものは、本当は大したものではない」です。
各家に相伝・継承される芸道の秘伝というものは、秘して他人に知られないことにより、最大の効果を発揮するものである、と世阿弥は述べています。秘伝されたものそれ自体は、種明かしをしてしまうと必ずしも深遠なものではない。しかし、誰も気付いていないという、珍しさ、意外性により、感動を生む芸となったり、相手に勝つ秘策ともなる。秘することそのものが芸に最大の花を生む秘伝である、というのがこの言葉の正しい意味となります。出典:寺子屋 素読ノ会
観客が予想もしていなかったときに、ふと予想外のことを見せると、観客は驚き、感動します。意外性など期待していないときに、そして演技者の側も、意外なことなど起こすつもりはまったくないというような態度のなかで、ふと予想外のことを起こすと、観客は感動します。
観客が「何か珍しいものが見られる」と、最初から期待しているのでは、意外性の効果はそれほどありません。「意外性に感動があるので、結果を予想させないようにする」 出典:秘すれば花
花は咲き乱れるのが美しいのではない。
その美を内に秘めている美しさこそが、最も崇高な美である、という精神です。 出典:言葉って面白い
解釈は人それぞれとなってしまうでしょう。
「秘すれば花」を「秘密はいいことだ」のように世阿弥の意図とは全く違った引用もありますが、若い世代にはそのような解釈のほうが、馴染みやすいのかも知れません。
住する所なきをまず花と知るべし
「住するところなき」とは、「そこに留まり続けることなく」という意味。同じ場所で留まるのではなく、常に変化し続けることが芸の本質である、ということです。文化や芸能こそ変化し続けなければならない。変化をためらう芸は死んだと同じということを「風姿花伝」の中で説いています。 出典:https://takarabune.org/blog/
常に変化しつづけることが、最も輝く方法だという意味です。いくつになってもどのようなステージにおいても、一カ所に安住することなく、変化し続け、その場そのときにしかない花を持ちたいものです。 アイドルからスタートし、人生の局面局面で最も輝く方法を探っていった世阿弥ならでは言葉だと思います。 出典:http://robert.cocolog-nifty.com/focus/
常に技能を磨き続けていかなければ、周りの人たちのも飽きられるし、自分も成長できない、という厳しい教えですね。
時分の花をまことの花と知る心が真実の花になお遠ざかるこころなり
「時分の花」とは年齢とともに表れ、盛りが過ぎると散ってしまう花。これに対して「誠の花」は稽古と工夫によって初めて咲く花のこと。 出典:http://www.acbee-jp.org/
若いときだけの役者の魅力を生涯失うことのない魅力と思ってしまうことが、役者としての真の能力を獲得することから遠ざかってしまう考えなのです。 出典:https://wakanosaki.com/
新人であることの珍しさによる人気を本当の人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠い。そんなものはすぐに消えてしまうのに、それに気付かず、いい気になっていることほど、おろかなことはない。そういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古に励まなければならない。 出典:http://www.the-noh.com/jp/zeami/
人気があっても調子が良くてもおごることなく努力し続けなさいという、「継続は力なり」に似たような言葉ですね。
現代人にとって世阿弥の「花」とは
世阿弥は「花」という言葉を、人気、技能、美など様々な意味で用いています。
これは私たち現代人も同じように使い、「彼には花がある」「彼女は花のようだ」などと表現しています。また、ビジネス書では、栄光、名誉、富、発想などにも使われています。
「風姿花伝」にならえば、その「花」を咲かせるためには、運命に身をまかせるのではなく、絶え間ない努力をするしかないということです。しかし、努力すれば時分の求める花をさかせることができるか?というと、そうでもないのが、人生のつらいところです。
世阿弥の晩年は佐渡の流刑されながらも、能への情熱は消えることなく精進していたとききます。そして世阿弥は、自分の芸は極まったと思えて死ねたのでしょうか?
世阿弥のようにひとつのことに集中して一生を費やすようなことをするのは、現代では社会の多様化によって、ほとんどの人はできないでしょう。けれど、夢を追い続ける心は誰もが持って欲しいものです。時がたつに連れ、その夢がどんどん変わっていっても、果てしない道をあるき続けていくことじたいが、今を生きる私たちの「花」ではないかと感じます。