世界中の人達を魅了するポスト印象派のオランダの画家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Eillem van Gogh)。
短い人生を自分の芸術を探求し続け、生涯独身でしたが、女性が嫌いだったわけではありません。彼は何度も恋をし、ことごとく恋人にフラレていました。
この恋多き天才画家の愛する女性たちはなぜ彼を受け入れなかったのでしょうか。エピソードを交えながらフィンセント・ファン・ゴッホの恋人たちを紹介します。
キャロリーナ・ハーネベーグ
1972年、フィンセントが19歳のとき、母親側の従姉妹に恋をします。
一族の集まりなどで年に何度か顔を合わせる仲でした。フィンセントはキャロリーナに告白しますが「好きな人がいる」と言われフラれてしまい、他の男性と結婚してしまいました。彼は「僕の好きな女性は結婚してしまったので、諦めるよ。彼女からは離れるけど、心ではずっと思い続けるさ」と弟テオに手紙を書いています。テオはキャロリーナの妹アネットと付き合いますが、アネットは病気なり亡くなってしまいました。兄弟二人共、悲しい恋の結末でした。
ユージニー・ローヤー
翌年、フィンセントは叔父の経営する画商で、素行が悪く叔父に嫌われ、ロンドン支店に転勤になりました。ロンドンでの下宿先の娘19歳のユージ二ーと「兄妹みたいな関係」になったそうです。彼は次第に恋心を彼女に抱くようになり、1874年21歳の時、告白します。しかし、ユージニーはすでに他の男性と密かに婚約をしていたのでした。
フィンセントの落ち込みはひどく、うつ病のようにひきこもってしまい仕事も解雇されてしまいます。妹のアンナはロンドンまで来て、彼の面倒をみますが、そのままユージニーの下宿にいるのに耐えられずに、引っ越しました。
ケー・フォス・ストリッケル
ケーと息子 引用元:https://www.vangoghmuseum.nl/en/
1881年、28歳の時、フィンセントはまたもや従姉妹に恋をします。
フィンセントはベルギーでの伝道師の職を解雇され、画家になる決心をしていましたが、経済的に自立することができず、エッテンの実家に戻って絵を描いていました。フィンセントの両親に会いに来たケーを好きになってしまいます。
ケーはフィンセントより7歳年上のすでに息子もいる未亡人でした。彼は求婚しますが、返事は「とんでもない!絶対ダメ!」でした。今回はフィンセントは諦めず、彼女がアムステルダムに帰ってからも何度も手紙を書いて懇願します。そして、返事が来ないのでしびれを切らし、弟テオの借金までしてケーに会いに行きます。情熱的にアプローチしますが、同居しているケーの両親には非難され会わせてもらえませんでした。それでも、フィンセントは粘り、「私がランプの炎に手を置いていられる時間だけ会わせてください」と、クレージーな行動をとり始めます。勿論、ケーの両親はこんな危ない甥に、娘を会わせませんでした。
ケーの父親も牧師でしたが、この件でもともと自分の父親との関係がうまくいっていなかったフィンセントは、聖職者に対して疑念を抱くようになったといいます。
シーナ・マリア・ホールニク
父親との激しい口論で実家を飛び出したフィンセントは、写実主義の画家アントン・モーヴを頼り、ハーグに移ります。(29歳のとき)
ここで、身重の娼婦でモデルをしていたシーナと街頭で出会います。フィンセントは一般の女性に対しては慎ましやかな態度をとっていましたが、画商の時代から娼婦との交流はありましたので、女性への許容範囲は広かったと思われます。
極貧で娘がいてお腹の大きいシーナの生活の面倒、家賃を支払い、食事を与え、自分のモデルとして雇います。月々のテオからの仕送りもほとんど彼女の生活費につぎ込みました。
フィンセントは良家で育ち教養と品格のある女性を尊敬していましたが、その逆の底辺で生きながらえる女性にも強く惹かれていたのでしょう。
しかし、この生活は、モーヴの不興を買うことになり、絵画協会の会員や展覧会の出品を困難にしたと思われます。また、当然のことながらシーナとの結婚は、フィンセントの家族にことごとく反対されました。しかし、彼は自分の家庭を作ることに憧れてましたので、シーナの生まれてきた息子に「ウイレム」と自分と同じ名前をつけて一緒に生活し始めます。
18ヶ月の共同生活をしましたが、経済的な貧しさから、シーナが娼婦に復帰する意志をみせたことや、彼の芸術を全く理解しないことが原因で、結局2人は結婚せず、破局をむかえました。
その後、シーナは51歳で11歳年下の男性と結婚し、3年間一緒に暮らした後、亡くなりました。
マルガレータ・ベーへマン
1883年、シーナと別れた年にフィンセントはまた郷里に戻ります。家族との仲が少し好転し、定期的に作品を送ることで、テオからの援助を絵の対価とすることにしました。
翌年、隣人の10歳年上のマルガレータと恋人同士になります。しかし、彼女はゴッホと同じように精神にムラがあり、マルガレータの姉妹に結婚は反対されていました。彼女は散歩中に暴行を受けたと噂され、それを苦にして毒を飲み、自殺を図ります。この事件で二人の関係は終わってしまいました。
別れた後も、彼はマルガレータを気にしていたようで、家族に手紙で様子を聞いています。後に、フィンセントは自分の作品を2点、彼女に送っています。
ホルディナ・ドゥ・フロート
1885年の春、最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させ、フィンセント自身は満足でしたが、周囲の評価は得られませんでした。この絵のモデルとなっているホルディナが妊娠していることがわかり、父親はフィンセントはないかと疑われ、村の司祭は村人が彼のモデルになるのを禁じました。しかし、後に彼が妊娠させたのではないと分かりました。フィンセントはホルディナをモデルにして20点以上のスケッチをしていたので、疑いの目をかけられたのでしょう。
アゴスティーナ・セガトーリ
1886年、33歳の時、フィンセントは弟テオのいるパリに移ります。今度は彼は、カフェ・タンブランの女主人、アゴスティーナに恋をします。アゴスティーナは、コロー、ドラクロワ、マネなどの当時から有名だった画家のモデルもしています。2人は半年ぐらい付き合い、彼女にカフェにはゴッホの作品(主に花の絵)が展示されていたこともあります。上記のアゴスティーナの肖像の右横に、日本画が描かれていますが、これは彼が所有していた日本画です。
フィンセントは彼女に求婚しましたが、カフェのスタッフや彼女の友人に反対され、交際は終わりました。フィンセントは自分の作品を何点か彼女に贈っています。アゴスティーナは作品を受け取り代金の代わりに食事代を無料にしていたようです。残念ながら、このカフェにあった作品は、カフェが倒産したときに一緒に押収されてしまい、未だ行方知れずです。
マルグリット・ガシェ
映画「ゴッホ最後の手紙」では、ポール・ガシェ医師の娘マルグリットに、フィンセントは恋していたのではないか、とされています。
アルルでゴーギャンと同居しましたが、口論が絶えず、ゴッホは自分の左耳を切り落とします。アルルやサン=レミの病院で過ごした後、ガシェ医師のいるオーヴェル=シュル=オワーズに移ります。
ガシェ医師と家族はゴッホに対して親身に接し、彼の精神状態も安定していたようです。
美術史ではまた憶測に過ぎませんが、映画「ゴッホ最後の手紙」の解釈のように、美しく教養があり優しい優しくしてくれるマルグリットに、フィンセントが恋をしていた可能性はあるでしょう。また、彼が拳銃で撃たれたとき(現在ではゴッホは他殺説が有力)、呼ばれたガシェ医師がなんの治療もしなかったことは、娘との交際を好ましく思っていたからではないでしょうか。
ゴッホの純愛は何だったのか
フィンセント・ファン・ゴッホは純粋に次々と女性に恋し、ひたすら自分の家庭が欲しく結婚を熱望していた男性だといえます。これは幼少期に両親に冷淡に扱われたのがトラウマとなり、側にいる誰かに愛してもらいたかったのでしょう。しかし、客観的に考えれば、精神を病んだ貧乏な画家と結婚する気になる女性は皆無です。女性の許容範囲はかなり広いフィンセントでしたが、ことごとく拒絶されています。
彼はどの女性にも恋の本能をむき出しにし、全身全霊で愛したようで、破局した後も彼女たちを罵ることはありませんでした。彼の求める愛は得られなくとも後悔はなかったように感じます。
芸術家として成功せず、幸せな家庭もつくれなかったフィンセントの心は、死ぬ間際にどんな想いをめぐらしていたのでしょうか。
参考:
Van Gogh in Love
artnetnews
Meet Vincent
ウィキペディア フィンセント・ファン・ゴッホ
Daily Art